随筆

                      最初に

 

船宿・釣り堀等の施設名はお世話になっている所なので実名で書かして

頂きました。(やめてしまっている所もあります)

このHPを読んだ皆様で機会が有りますれば是非ご利用下さい。

 

■タイトル一覧

1.『達磨さんが転んだ』

2.故kk氏との出会い

3.小学生の頃の時代背景

4.私の魚釣りの原点と父の存在

5.ヘラブナ釣り《釣り堀編》

6.ヘラブナ釣り《野釣り編》

7.ハゼ釣りの極意『ノリとモタレ』と妙技

8.山梨県笛吹川へ釣友とハヤ釣り

9.恵林寺、鐘突き堂横の防火用水のハヤ釣り

10.働き始めてからの釣り

11.Aさんと渓流釣りで滑り台

12.福岡の溜池で真鮒釣り『パサッ』

13.五島列島の『太かクロ』釣り

14.勝浦のテトラで黒鯛ねらい・・気がつくと

15.浜松町・辰金の真子鰈釣り

16.Choさんと石鯛釣り、口が動いている

17.浦安・吉久

18.那珂湊港でサヨリ釣り

19.出張帰り、ついでに師崎港出船でkさんと魚釣り

20.意外な餌で残りマスをゲット 

21.杉並区和田堀公園内釣り堀『武蔵野園』

22.江の浦堤防、Oさんとよた波・木更津沖堤

23.東雲ちどりや・七福神会

24.鹿島港・清栄丸の夜イカ釣り

25.西伊豆・木負でのボート釣り

26.小型船舶操縦士免許取得

27.伊勢町・海勇丸

28.釣り行脚、内房の港、夜釣りで肩にズシッ

29.鹿浜・松陽丸

30.那珂湊港・つれたか丸

31.鶴見潮見橋・新明丸

32.危ない魚・ヒレに毒のある魚3点+α

33.自分の不注意から起こった事 

34.KGさんとの出会い

35.私にとっての3.11

36.ブラックバス釣り

37.霞ケ浦水系・与田浦水系、ホソの真鮒釣り 

38.びん沼川で釣友N氏との出会い

39.自己流・草餅の作り方

40.初めてのイカ釣り 

41.父は船頭、私は船長、あなたはなんて呼びますか

42.タイトルの 少笑発進・・・笑いについて 

43.記憶と魚拓

 

2013年

5月

06日

1.『達磨さんが転んだ』

2005年頃の話

 

息子が子供の頃によく暁埠頭公園(昔の13号埋立地)へ一緒にセイゴ釣りに出かた。1980年頃の話になるが、金沢八景荒川屋の常連で某釣り雑誌に『カレイ釣りの神様』と言われた故kk氏との出会いがここから始まる。話をもとに戻しますがその後、大人になった息子も単独でシーバス釣りに行っていたようだ。その息子が『父さん猫がいるから気をつけて』と訳のわからない事を言っていたが、気にも止めなかった。磯竿に電気ウキ(リチューム)タナ約1ヒロで青イソメをつけ釣り開始、徐々に夕まずめを向える。早々にウキが沈み合わせ、20cm級のセイゴが釣れリリース、周りを見

わたすと猫が2~3匹何処からともなく現れてあたかも名人の後ろ姿を見守っているかの様子、ボツボツ釣っては逃がししている内、手応えのあるセイゴが掛かりそのままぬき上げ地面に落した。その瞬間目にも止まらぬ速さで猫が魚を銜えて走り出した。竿が弓なりに『アッ、折れる?』ハリスが切れて竿は無事で息子の『猫がいるから気をつけて』の意味がわかった。周りの猫を追い払い釣りを開始するも名人の処に何故か猫が寄ってくる。後ろを振り向くと猫の足がピタリと止まり前を向くと少しずつ近づいて来る。後ろを向くと止まる。追っ払ってもまた同じで、まるで『達磨さんが転んだ』をやっているようだ。その内に子猫が名人の足にまとわり付き『ミャーミャー』言って邪魔をする。まとわり付いた子猫にセイゴを投げると側にいた他の猫がかっさらって行く。名人は釣りを楽しんでいるだけだが、彼らにとっては今晩の夕食が掛かっているのだろう。周りも暗くなってきており何度か魚を取られている子猫に『待っていろ、次はちゃんと上げるから』と小ぶりのセイゴを暗くなった周りに猫がいないのを確認し与えると『よかったわねえ』その声にドキッ。暗くなった近くのベンチでカップルが一部始終を見ていたのである。名人恥ずかしいやら照れくさいやらで納竿した。

 

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2013年

5月

06日

2.故kk氏との出会い

1980年~2008年の話

 

kkさんとの出会いは私が営業で江東区を担当していて海沿いで一休みする場所を探していると暁埠頭公園で延竿に電気ウキの釣り人発見、声をかけると青イソメでセイゴが夕方から夜半にかけてよく釣れる。『私は毎日来ているので、良かったら竿を持っていらっしゃい』と気さくに誘われ、肩を並べる事になり、ちょっと沖目の岩盤のかけ上がりで良型のメバルも釣れ、磯竿に電気ウキ仕掛けでセイゴ、メバル狙いで時にフッコもと釣行を重ねる事になりました。kkさんは私が今まで会った釣り仲間と違いました。例えば魚信がないと『こっちの方が良く引くのでこっちへいらっしゃいよ』と自分の場所を空けてまで呼びます。こうゆうタイプは初めてで驚き考えさせられました。歳は私より20歳以上年上で日本橋生まれの江戸っ子で港区三田にお住まいでした。釣り歴はまだ浅い様で、今度一緒に違う場所での釣行をと誘い千葉県の袖ヶ浦へキス釣りに行きましたが喜んでもらい、その後kkさんは単独でまるまる1日(朝から次の日の朝まで)のハード釣行でキス1束、秋口にはコッパガレイも1束の記録を達成、次に釣船での真子鰈釣り、私の常宿浜松町『辰金』に誘い、釣り方等教える。すぐマスターし釣り続けるがその後住まいを港区三田から神奈川県横浜市金沢区へ移られ、金沢八景『荒川屋』を常宿として真子鰈釣りの腕を磨き名だたる常連さんたちと渡り合った。kkさんはマージャンが好き、また歌はプロで絶対音感の持ち主で生徒さん達に歌を教えていました。江戸前の釣りの世界に引き込んだきっかけは私ですが江戸っ子の気さくさとバイタリティーあふれる釣りっぷりが『荒川屋』の常連さんに溶け込み人気を博したのだと思います。ご冥福を祈ります。

 

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2013年

5月

19日

3.小学生の頃の時代背景

1957年~1962年頃
【少年編】 

 

北区のこの周辺は中小企業の工場地帯でいわゆる下町、近くの明治通り沿いに中古の機械屋さんがずらりと並んでいた。自宅は一応父の会社の社宅で4軒長屋、隣とは壁一枚で一部始終良く聞こえる。プライバシーもへったくれもない。そんな訳で金持ちではない。道と道の間にはあちらこちらに狭い路地がありちょうど『3丁目の夕日』の舞台の様、長屋の洗濯物の物干し広場は別の場所にあり、ここが近所の子供たちの遊び場で皆が集まって来る。近所には駄菓子屋があり、紙芝居屋さんも来る。いろんな遊び、メンコ、ビー玉、ベーゴマ、等みんな賭けの対象で何時も巻上げられていた。その他に馬跳び、缶蹴り、石飛、ボール紙を弾にした手作鉄砲で戦争ゴッコ(材木の切れ端40cm輪ゴム沢山、釘1本、木製の長四角の洗濯バサミで作成、弾はボール紙(1cm×1cm)その他に自分たちが考えてはやった遊び『コマまわし鬼ごっこ』ルールは簡単コマを手の平の上で回し、回っている間だけ動けるがコマが止まったら動けない。これで鬼ごっこをする。そうコマを手の平の上で回せないと仲間に入れない。ただ小さい子供は出来ないので救済処置として地面で回しボール紙ですくうのもありであるが皆が個々に練習して全員が手の平で回す事が出来た。毎日が楽しかった。ただこの場所に良く私の布団が干してあったのが恥ずかしかった。それと私はこんな子供でした。行商のおばさんYさんが重たい籠を背負って野菜等を売りに来る。我が家が中継所で近所のおばさん達が集まって来る。テーブルには沢庵や胡瓜の漬物や煎餅が並びお茶を飲みながら『ワイワイ、ガヤガヤ』と井戸端会議、そこに私もチョコンと座り、漬物を食べお茶を飲み、話は聞いていないが違和感なく溶け込んでいました。またYさんの持ってくるデコボコのトマトや曲がった胡瓜等、種が確り入っていて今思い出すと味が濃くて美味だった。特にアンコの入った草餅は好物だった。こんな背景の中で子供時代を過ごしました。さあ子供の頃の釣りの題目に入りましょう。 

 

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2013年

5月

19日

4.私の魚釣りの原点と父の存在

1956年頃からの話

【少年編】 

 

私の初めての魚釣りはハゼ釣りだと思う(1956年)。小学校に上がる前だったと思う。中通しのハゼ竿にゴカイをつけ脈釣りでブルブルの魚信で竿を跳ね上げ釣れた魚は後に飛んで行き、そこまで行って鉤を外す。の釣りだったと思います。その後も釣りよりは殿様バッタや殿様ガエルの方が良くヘラブナ釣りの父のそばでカエル捕りに夢中で川に落ち後ろから父がワシズカミ、ずぶ濡れで草原にズボンやパンツを干しながらフルチンで殿様ガエル捕り再開。父と一緒に荒川江北橋付近の湿地帯で弁慶ガニやザリガニを沢山捕った思い出も記憶に残っている。他にも記憶だと川口市から荒川へ合流する新芝川やその近くの池へ小鮒や泥鰌などの雑魚釣りにも良く行きとても楽しかった。このような釣りが続いていましたが、11歳(小5)の時に父からヘラブナ釣りを教えるからとの宣言があった。当時、私に落着きがなくチョコチョコしていたからかもしれない。

 

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2013年

5月

21日

5.ヘラブナ釣り《釣り堀編》

1961年頃からの話
【少年編】

 

父の話:鮒釣り大会で突き出した好場所に入り真鮒を釣りまくった(90匹)が惜しくも2位だった。1位はヘラブナ10枚で目方(重さ)の勝負だった。非常に悔しかったと思う。父が中古のバイクを買いちょっと遠出が出来る様になった。そんな訳で私のヘラブナ釣りも始った。まずは釣り堀からで餌を付け振り込む。道糸を沈めヘラウキが馴染む。モゾモゾからツンで合わせる。釣る場所はいつも端っこで隣に父『合わせが遅―い。強―い。今のでいい』等父のマンツーマンの指導のお陰か。ウキの動きを見て合わせがピタリと決まった時、集中出来て実に面白い。当時の良く行った釣り堀は足立区西新井大師の近くの『金水園』でその他近くに『大師園』『八方園』もあった。当時の餌はウドンで餌の大きさに切ってサナギ粉をまぶしただけ、それでも良く魚信がありまた良く釣れた。ちなみにヘラウキは父の手作りでトップの目盛りを綺麗に色分けして塗り、ボディーの孔雀の羽根は抜ける時期に近くの小動物園に行き羽根を分けてもらい切って張合わせて作っていた。

竿:8尺.9尺のグラス竿(メーカーはNFTやエビスだったと思う)

  

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2013年

5月

21日

6.ヘラブナ釣り《野釣り編》

1961年頃からの話
【少年編】

 

いよいよ釣り堀のヘラ釣りにも慣れた頃と父は判断したのだろう。野釣りのヘラブナ釣り挑戦と相成ったのですが、私にとっては正直、退屈で苦痛の始りでした。まず餌作りが大変でした。(私は見ていただけ)前日にサツマイモを蒸かします。皮をむき、すじをアミで綺麗に濾します。(この状態のイモソフトで上手い)これに小麦粉やサナギ油を少し混ぜた記憶があります。翌朝真っ暗な内から出かけます。エンジン音がうるさいので表通り迄押して行きます。外は寒いし眠い。釣り場は将監川や旧小貝川で水戸街道を走りかなり時間がかかる。釣り場到着、日の出とともに水面に靄がかかりヘラブナのモジリやハネが始まり、モジリやハネが多い場所を選びます。川沿いの草原の中の釣り場所は藻が刈ってあり一人しか入れない。隣の釣り場は10m先にあるといった感じでした。つまり姿も見えない10m先の釣り場に父がおり釣りをしている状態になります。最初は父が私の釣り仕度をする。座る場所を作り竿掛けを土に刺し、グラス竿(丈一から丈三)に仕掛けを付け、タナにウキ調整、玉網や魚籠を用意し練り餌をくれ、自分の釣り場へ行き今度は自分の釣り仕度、『どうだ魚信は有るか』の声だけが聞こえる。朝の内は何とか型を見るもだんだん釣れなくなり孤独の中で釣らなくなる。足元の長靴の側に餌をまき集まったタナゴの動きを見たりザリガニと遊んだり、あまり静かだと釣りをしていないのがバレ怒られた。また天気が良くなり喉も渇くと水筒の水がすぐ無くなり父の言いつけで近所の農家に井戸水を貰いに行く。釣りに着て行く服は汚れても良い格好の服で首に手拭いを巻き父の会社の帽子をかぶり長靴スタイルで『すいません、お水を下さい』おなじ処へ2度も行くのはけっこう恥ずかしい。冷たい井戸水を先に腹一杯飲んでから水筒に入れる。あまり釣れない時は早めに竿を終い帰りに小さな池や小合溜(水元公園)で父が隣にいて釣りをした。話をしながらの釣りで楽しかった。歳と共に慣れ自分で仕度をする。それと当時としては画期的な餌が出た。雪印のマッシュポテトでお湯でこねてそく出来上がり、父は得意そうに『どうだ』私『そんなんで本当に釣れるの?』その後、釣り餌用としてあの有名な赤べら、青べら等が登場するのである。

 

戦争を経験し、簡単に褒めたりしない昔堅気の父がこの当時どんな気持ちで私に本格的に釣りを教えたのか。この文を書きながら色々と思い出し何故か目頭が熱くなりました。この後も特に歳を取ってからの父とは良く釣りに行きました。

 

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2013年

5月

21日

7.ハゼ釣りの極意『ノリとモタレ』と妙技

1961年頃からの話
【少年編】

 

ハゼ釣りは1956年頃からしているが、父からヘラブナ釣りと同時期11歳(小5)の時に中通し鯊竿、脈釣りでの小突き方から聞き合わせ方を釣りの現場で直々に教わった。どうしても小突きが大きくなってしまう。非常に難しかった。デキハゼは食欲旺盛でブルブルが来てから合わせても数釣れるがヒネハゼになるとそうはいかずに逃げられることもある。ブルブルはハゼがゴカイ(当時の餌)を銜え逃げる時のブルブルと理解している。言葉で説明するのが難しいが竿先を下げた状態で小突く、小突きは錘を縦から横、横から縦にわずかに動かす感じかな、その後に聞く動作、竿先を下げた状態のまま、ハリス分だけ竿尻から竿先の順に竿全体を持ち上げる。その時に錘プラスαの重さを感じた時を『モタレ』居食いしている。もうひとつはフッと竿先が下がる『ノリ』ハゼが餌を銜えている。双方のこの状態の時はそのまま聞き上げて来るとブルブルとハゼが自動的に掛かった状態で上がってくる。『聞き合わせ』で釣った、釣り上げたの感覚である。『小突いて聞き上げる』動作には達磨大師の四聖句【不立文字】文字や言葉によって表現できるものでない。実践を通して自分で見つけていくものである。【教化別伝】教えは師から弟子へ直接伝えられるものである。しかしそれは言葉や教科書によるものではなくそれ以外のものによって以心伝心でなされる。に通じるものがある。と《言葉で上手く言い表せないのでこじつけて書きました》この一連の動作《妙技》がスムーズに出来ると。その姿は観ていてとても綺麗で効率的である。この釣り方を父から教わり釣って行く中で段々と上達。秋の彼岸過ぎには、千葉県浦安市の境川にハゼ釣り、満潮から下げ潮を釣り入れ食い状態が続き2時間で双方とも餌切れ2人の釣果合計は4束(百)、帰宅後ハゼをさばくのも私の役目(教わっておりお手の物)、全て天ぷら仕様に開いて処理・・・苦笑

 

父は馴染みの船宿に通って通って、この《妙技》を身につけたのだと思います。ハゼ釣りの大会でも好成績で景品のお鍋などを良く貰ってきました。どんな関係の大会か上位順位表に勤務先の会社名も載るのでいつも張りきっていました。 

 

父から教わったこの『ハゼ釣りの極意』や一連の動作《妙技》は私の財産で海釣りの原点です。

父はマナーにもうるさかったです。釣れてる人の側で釣ってはいけない。先着者優先で間に入る時は『魚信ありますか』から話をし、隙間があれば『隣りに入らして貰ってもいいですか』と隣の釣り人に了承を得る。先に帰る時は『お先に』と声をかける。コマセ釣りでコマセをまかずに側で釣る事は特に『厳禁』でした。 

  

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2013年

5月

22日

8.山梨県笛吹川へ釣友とハヤ釣り

1961年頃からの話
【少年編】


小学校低学年の頃から夏休み、冬休みになると田舎(母の実家)へ行っていた、と言うよりも私一人置いて来られ、叔父夫婦の元で遊びに夢中、夏になると手拭を袋状に糸で縫い上の口も針金の輪っかが通るように糸で縫い、針金を通して輪にし長めの竹竿の先に固定して蝉捕り袋を作り近所に武田信玄公の菩提寺である乾徳山恵林寺(臨済宗妙心寺派)がありその参道の木々等でミンミン蝉、油蝉を沢山捕った。また高学年になると近くを流れる笛吹川(清流)で油鮠釣りにも夢中になった。叔父からの注意事項は危ない所、特に下流の発電所付近では絶対に釣りをしない事。近所の釣友Yちゃんと何時も一緒に釣りをした。私はグラス竿にナイロン糸、Yちゃんは近くの竹藪から手頃な竹を切り、テグスを結んで脈釣り、イデタチは双方とも、麦藁帽子にサンダル、ランニングシャツに海パン。竿と仕掛け、予備の鉤等一式それと釣った魚を入れるドロップ缶(蓋に穴を開け横から針金を通し手で吊るせる様に作ったもの)を持ち。餌は川の中にジャブジャブっと入り大きな石の縁を水中から上の方に手の平をゆっくり這わせて行くと、手の平にピンチョロやカゲチョロ等の川虫が沢山取れ、腕の肩のあたりに張り付け脈釣りをする。河の手前から対岸に向け各ポイントを流しながら上流へと釣り続ける。この全ての流れはYちゃんから見様見真似で全て教わった。各好ポイントもアウンの呼吸で付かず離れずで上流へと釣り進んで行き『へえー、帰らだぁ』と甲州弁で納竿の合図。釣った魚は自宅の池へ放流。これが日課で実に楽しい。またYちゃん家で焼いてもらって食べたトウモロコシは実に美味かった。今でも忘れない。それと毎年、夏休みが終わりに近づくと、山のように宿題が残っていて大変だった事も思い出した。お盆のある日こんなことがありました。いつもの様に2人で釣り上がって行くと急に川の水が濁ってきて少し水かさが増して来た。いやな感じがしたので岸により様子見で高い所へ、後方から父と叔父の声が聞こえてくる。近ずいて来ると切羽詰った顔からほっとした顔に、我々は全然気がつかなったが上流のダムを開ける情報が入り、飛んで来たのだ。中州にいたら大変危険だった。いい教訓として今でも記憶に残っている。 

 

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2013年

5月

24日

9.恵林寺、鐘突き堂横の防火用水のハヤ釣り

1961年頃からの話
【少年編】

 

冬休みは川では油鮠が釣れない。近くの乾徳山恵林寺には大きなお寺なのか直径10m

?ほどの防火用水が2つもある。深さも3m?ほどあったか下に落ち葉が沈んでおり、丸々と太った鮠が釣れる。時間は朝か夕方が良い。餌は東京から持参したサシを付ける。いつも釣っている防火用水は墓地の入り口近くにあり、誰でも近くを通行出来る場所でボチボチとは釣れているが、もう一つの防火用水の方が良く釣れ型も大きいらしい?少年は早起きしてもう一つの防火用水へ向かう。鐘突き堂の裏の壊れた板塀の隙間から境内へ。有りました防火用水が。薄っすらと水面が凍っていて木の棒でツッツキ氷を壊し、釣り開始、棒ウキが『チョンチョングー』早々に丸々とした鮠が釣れその後も順調で夢中になって釣っていると近くの廊下をお坊さんが通りがかり『こらっ、そこで釣っちゃいかん』慌てて竿を持ち壊れた板塀の外へ退散。やはり敷地の中なのがいけないのかな。と思いながら翌朝も薄暗い内から『そおーっ』と板塀の隙間へ・・・今現在の恵林寺は立派な宝物殿等も出来、観光地としてもとてもにぎわっています。境内の防火用水が今どの辺にあったかはもう記憶に有りません。 

 

《余談な話》
父も私も息子も東京生まれですがルーツ(家系図)をたどれば息子迄、全て甲州の血が流れています。これは驚きです。
  

盆地で囲まれた山梨県人は人と人とのつながりに独特のものを持っていると強く感じます。それと例えば昔の武将を言う時にただ織田信長とか徳川家康とか言いますが山梨県人(特に昔の人)は私も含めて(武田)信玄公と言う言い方をします。敬って決して呼びすてにはしません。

 

                                

鐘突き堂横の防火用水 その後                            2016年9月吉日 

少年時代 乾徳山恵林寺の二つの防火用水で冬の油鮠釣りをしました。もう半世紀

以上も前の懐かしく楽しい思い出。今回、墓参りの一つでもある恵林寺に行く機会

が出来ました。境内には鐘突き堂があり隣に武田信玄公宝物館そしてその先にお手

洗い。何気なく奥の方を見ると長方形の防火用水が有りました。外の道との隙間の

壊れた板塀が今はブロック塀、当時は宝物館はなく木が生い茂っていたのでしょうか。防火用水は浅くなっていて昔の面影はありません。それと墓地側にあったもう

一つの防火用水は危険なのか表面に網が掛かっています。少年時代に見たおぼろげ

な記憶と今とでは中々一致しませんが懐かしく感じています。

2013年

5月

24日

10.働き始めてからの釣り

1972年~1973年の話
【㈱T編】

 

釣りを教わった父と中学、高校、大学と回数は減っていましたが海や川へと釣行を重ねていました。㈱Tと言うブロイラーの問屋に就職、朝から夜遅くまで仕事が忙しく、休みは疲れて釣りをする暇がありません。ある時、得意先と会社の釣り好きが集まっての親睦鮒釣大会があり、もちろん参加。皆はシモリウキの真鮒仕掛けでの釣り、私は機場近くの大場所でのヘラ仕掛け、2本鉤に赤虫つけての釣りを通した。後日その姿を見ていた運輸部M部長と先輩のKさん『お前ヘラをやるのか』『はい、父に教わって』『今度有休を使って3泊4日の釣りに行くが一緒に行くか』二つ返事でお願いしました。

 

石川県片山津の乗っ込みベラ釣り3泊4日

以前に現地に釣行、尺ベラの入れ食いを味わっている。地元の釣り師でヘラ仕掛けの釣りをする人はおらず、棒ウキに赤虫で釣っていたが、好調な我々の釣姿を見て翌年行ったら、ヘラ釣りスタイルになっていて驚いた。と言うわくわくする話をM部長から聞きながら夜の東名高速を片山津に向けて快調に走り抜けて行く。車は黒のセドリック、運転はM部長、助手席にKさん(多分交代で運転していると思う)私はいつもは会長が座る後部座席で気持ち良く仮眠いや快眠です。翌朝未明に現地到着、夜が明け肌寒い中、釣り開始何投か餌打ちしているといきなりモジリもなく『ツッツッツー』で合わせると大きくはないが初ベラその後も確りした『ツン』で入れ食い。のんびりしていると一家で来てしまうが型が7、8寸と今一、後ろの方で『君たち、逃がしてやるからもっと大きなお兄さんやお姉さんを連れてらっしゃい』とボヤキ節、私は野釣りでこんなには数釣れないし、まして釣り堀でもこんなハイペースでは釣れない。それに魚信は明確でヘラ鮒がとても綺麗である。夢中で釣り続け魚籠がいっぱいで開け変え、また釣り続け1日が終わる。旅館に帰って風呂に入り美味しい夕食、睡眠、餌を振り込みウキが立ち『モジモジ』『ツン』でピタッと合わせる。これ夢の中の出来事。眠い中早朝起こされて違う釣り場へ、ポイントも多数あり、より型のよさそうな処を探しながらの釣りだが今日も同型を釣りまくる。寝ても覚めてもヘラウキが動き手が反応している。幸せで苦痛の日々でした。

 

 

【検証】石川県片山津の乗っ込みベラ釣り3泊4日について

2014年3月29日上野で㈱TのOB会が開催され運輸部M部長にお会い出来て当時の様子や場所等を詳しく聞く事が出来ました。

                                   

M部長談:『東名高速は養老の滝の1つ先で降りた。確かイブキ山(豊臣秀吉が最初に持った城)の前を通って片山津方面へ行った』釣り場の話を聞くと『片山津と言っても温泉街ではなく実際はそこから少し離れた釣り場でキバガタ(湖)とその周辺の用水路で釣りをした。宿泊はJR粟津駅前の小さな旅館で駅の裏には小松製作所の大きな会社があった』

 

聞いた話を地図と照らしあわせて検証してみました。

東名高速から名神高速へ入り養老の滝の1つ先で降りた(関ヶ原IC)確か伊吹山のすそのを通り豊臣秀吉が最初に持った城(長浜城跡)の前を通過し国道365号線もしくは8号線を金沢方面に向って進み加賀市片山津に到着。と言っても片山津の柴山潟で釣りをしたのではなく実際には少し離れた釣り場、木場潟(湖)とその周辺の用水路でヘラブナ釣りをした。また宿泊先はJR粟津駅前の小さな旅館に宿泊しそこから釣り場に出かけた。駅の裏には小松製作所粟津工場がある。その当時の釣り場の雰囲気は何となく記憶に残っている。機会があれば再度乗っ込みの時期に釣行してみたいな。今はとても楽しい思い出として記憶に残っています。

 

 

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2013年

5月

24日

11.Aさんと渓流釣りで滑り台

1974年~1975年の話
㈱T郡山(営)編

 

鶏肉問屋㈱Tで営業として一通りの仕事を覚え会社から郡山(営)勤務を命ずの辞令を貰い独り身で引越は布団1式ミカン箱5つ配送帰りの長距離トラックに積み、後は体一つで移動、社宅扱いの新しいアパートは田んぼの中の6畳2間DK風呂付きの広い部屋で辞令内容は(福島県は浜通り、中通り、会津通りと分けられ)得意先のない会津方面を開拓せよ(喜多方市にスーパー1軒有り)とのこと。2t車で2日に1度、中山峠を越え猪苗代町、塩川町、喜多方市、会津若松市と飛び込みの見込み販売最初は苦戦するが本社の上司Kさんからヒントを貰い徐々に得意先が増えていった。肝心の釣りの方はヘラブナが釣れる場所を見つけたが、仕事が多忙、自炊生活で休日は休んでいたい。ストレスがたまると仕事前の朝がけで2時間ほど釣りをした。会社は全Nのと畜場の中にありその中のAさんから渓流釣りの誘いを二つ返事で受けた、中学、高校と田舎でヤマメ釣りを経験しているが素人(魚が付いているポイントは判るつもり)夜中に出発し(おそらく山形の山奥)林道を走り車の止まっている所は人が入っているのでと奥へ進み、車の止める場所を見つけ、下へ下へと降りて行く井手達は竿を入れたナップサックに着換え1式をビニール袋に入れ、携帯菓子に水筒、足は滑らない渓流靴、帽子に寒くない地味な格好でベストに小物を入れて、Aさんは私より年上で長身190cm近く、腰には熊避けのジャラジャラを付けている。川に降りてまず玉網を下に置き足の裏で石を引っ繰り返したりとごしごしさせ鬼チョロ等の川虫を採取川は元気よく流れ、落ち込みから白泡え渦を巻き流れの筋、沈み石、流れのゆるい部分境目で渦、ヒラキ(浅瀬へ)、また落ち込み、手前の辺地、流芯近く、対岸、各ポイントを低い姿勢で流しながら釣り上がる。渓相も実に良い。場所によっては大きな石から石へ飛び移って行く。有る場所へ来たらAさんはクリアー。私はどう見ても無理で急斜面を登って迂回、Aさんから『そこは滑りやす』その時私は『アッ』竿を片手に川に向かって滑り台『ザブン』ちょうど岩と岸の間に木の棒が2本あり両脇抱える様な形で流されずに済んだが下半身『つめたぁー』その後もそのまま釣り続けるが型を見た程度。納竿前に服を着替えた。命拾いしたかもね。その後は結婚し妻と休みの日には毎週の様に気分転換と観光がてら出かけました。車にはいつも竿を積んで。私は会津方面の開拓で頑張り2t車が荷で埋まり配送専門をつけた。次は二本松町とか白河市方面の開拓を始めた頃に福岡へ転勤。心残りは喜多方市の奥の山都町付近でヘラブナの好場所が有り竿を出したかった事である。ちょうど今『八重の桜』を放映中の会津弁を聞くと当時お世話になった方々を思い出し胸が熱くなります。私は色んな所を見たり聞いたりしてきましたが、会津弁はとても上品できれいな言葉だったと思っています。 

 

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2013年

5月

24日

12.福岡の溜池で真鮒釣り『パサッ』

1975年~1976年の話
【㈱ZT福岡支店編】

 

鶏肉問屋に勤めていて郡山(営)から福岡支店へ転勤、妻と南区皿山のアパートへ引越、買い物は近くに大型スーパーが有りその隣に大きな池があった。休日になるとヘラブナ仕掛けに練り餌で小鮒(真鮒)が半日で1束も釣れる。こちらでは日の出、日の入りが遅く、平日も会社の帰りに1時間ほど釣りをして帰る事もあった。東京ではこんなに沢山釣れる事はなく、毎回あきずに釣りをしていると、話しかけて来る人がいてヘラの釣り師で色んな釣場を知っており、近くの高台でも釣れる溜池が有る。ここより綺麗との事。で行ってみると小さな池は石垣で囲まれ水草が有り水も澄んでいて環境が素晴らしい。魚信も確りしたツンで鮒の手応えも良い。ある時水かさが減り石垣の下へ降りての釣りとなる。いつもの様に釣りをしていると石垣の上から草原に『パサッ』と何かが落ちた気がした。何気なく後ろを振り向くと10cmほど鎌首を持ちあげた70cmほどの小さなヘビが側にいてこっちを見ている。『ヒァ-』とのけぞり玉網で追い払った。ヘビ君はスイスイと水面を泳いで消えた。その後は僅かな音にも反応し小心者のせいか釣りにならず納竿。台風が接近した時も妻の『危ない』の忠告も聞かず、まだ大丈夫と出かけた。風は四方八方に舞っている。水草の側に手がえし良く練り餌をふり込み、『ツン』の魚信で合わせ良く引く30cm真鮒、次も30cmと2枚の尺ブナを釣り意気揚々と帰宅、『台風が近ずいたこんな日に』と心配顔の妻を見て、釣りも程々にしないといけないなと深く反省。

   

1975年頃
【㈱ZT福岡支店編】

 

スーパー隣の池で珍魚?が

 

いつもの様に真鮒を釣っていてウキがすっと入り合わせたら重い、『あっ、ゴミか』ゆっくりと上がって来る。『ゴミだ、ゴミの先が動いている』釣り上げて良く見ると足が4本おまけに背中に甲羅を背負っている。『はいそうです20cmほどの亀』でした。優しく放流・・・笑い

 

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2013年

5月

24日

13.五島列島の『太かクロ』釣り

1975年~1976年の話
【㈱ZT福岡支店編】

 

福岡に来て毎回真鮒を釣っていて少し飽きた頃、社内で支店長始め全員(私を入れて5名)が海釣りをする。場所は五島列島の離れ磯に渡って『太かクロ』が釣れる。聞き慣れない名の魚で思わず黒鯛かと聞き直すと黒鯛はチヌで関東で言う『メジナ』で関西では『グレ』の事『太か』は『大きい』の意で近くの釣具店が全てを斡旋(渡船とコマセ代で当時1万5千円と高く)妻の許可をとり釣行決定。釣行前夜釣具店前で各自がアミエビと配合飼料を大きな入れ物に開けセメントを捏ねる様に混ぜてバケツに入れる。当時の付け餌はアミエビをビー玉大の大きさにストッキング様のもので包んだもの。Mさんは良く釣れる特エサが出たと言ってエビを買っていた。後年になって判ったのだが『オキアミ』だった。各自準備が出来会社の車で5名を乗せ長崎県の渡船の待ち合わせ場所(平戸か佐世保)へ移動、朝暗い中から船に乗り込み、日の出とともに磯に渡る。『○○の磯に乗りたい』『先週乗せたからだめ、10日は磯を休ませる』と言った具合で今回は希望の名磯に乗れた。海の色が濃青でとてもきれい、皆の取り決めは『ハリスは最初2号、釣れなくなったら一緒に1.5号に、抜け駆けはいかんバイ』仕掛けは磯竿に3号の道糸、上から飛ばしウキ、シモリウキを間隔を取って3連にし一番下を僅かに沈む様に調整、ハリス1ヒロで始める。コマセを2、3回撒くと海の色が黒みがかって来る。魚は見えないが魚影が凄く濃い。しばらくするとウキがあたかも潜水艦が水中に潜って行くようにゆっくりと潜って行く。大きく合わせる。かなりの引きで慌てる。隣のTちゃんが玉網アシスト約30cmのクロ、Kちゃんの魚を今度私がアシストといった具合に忙しくなり各自皆掛けたら牛蒡抜き、その後ハリス切れ、が続き不調、底が見えないが足元の磯が先から手前にえぐれている様、それと今考えると魚が大きいのか尾長だったのか、もっと慎重にやり取りすべきだった。好場所が狭いので支店長とMさんを残し、我々素人3人組は別の場所へ移動、少し小ぶりだがクロと引きのいいバリ(アイゴ)の入れ食い、バリは毒のあるヒレをハサミで処理しクーラーへ。食いも落ち着いた所で私は右側がえぐれていてその先が出っ張っている所へ遠投、コマセは届かない。ウキがスーと消えて行く糸ふけを取って大きく合わせると今までと違った引きで沖へ出て行く。ゆっくりと落ち着いて糸を巻いてくると魚の色が違う。50cmほどの青物が玉網に、後でMさんが『ヒラスさ回って着たばってんがよう釣れんかった』と悔しがった。『もしかしてこれ』と見せると『ヒラス、ヒラス、よかねー』これもこちらの呼び方で後で調べてみると『ヒラマサ』でした。今回の釣果はクロ、バリともに10匹ずつとヒラス1本で大漁でした。 

 

自然豊かで魚影も濃く何度でも行きたかったがその後2度ほど釣行でジエンド。理由は無事長女が生まれた事と釣行費が大変で自粛。真鮒釣りに没頭で本社に戻る事になりました。

 

福岡(博多)は魚の鮮度が良くて刺身がとても美味い。それとトンコツラーメンもさることながらウドンがとても美味く強く印象に残っています。 

 

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2013年

5月

24日

14.勝浦のテトラで黒鯛ねらい・・気がつくと

1977年の話
㈱T本社編

 

2日休みがとれ会社の同僚Hさんと黒鯛ねらいで釣行を決め昼前に自宅を出発Hさん宅に寄り勝浦へ3時頃到着、当時有名な黒鯛名人が経営する釣具店があり餌を買い情報収集。近くの堤防のテトラから夜半の黒鯛ねらいで、当時流行の遠矢ウキ風の自作棒ウキのトップにケミホタルを付けコマセを撒いての釣りで軽食に菓子パンと飲料水を用意、テトラの上で安定する足場を確保し釣り具1式玉網やヘッドライト等全て準備し4時頃から釣り開始、段々と日が沈み夕まずめを迎える。コマセを撒き水深等変えたりと色々工夫しながら攻めるも魚信なし飽きずにコマセを撒き付け餌がない事もあるが、本命からの魚信や気配は程遠い。離れた所にいるHさんとたまに会話するも真っ暗な海で光るウキを見つめているのみ。気が付いたらいつの間にか明るくなっている。何も釣れていない。この頃になると何も考えずひたすらコマセを撒き餌のチェックをしているだけでだいぶ時間も経過し飽きてきた。Hさんに『そろそろ止めようか』『そうだなあ。止めよう』時計を見ると正午を回っていた。帰りのラーメン屋で朝昼一緒の食事を済ませトイレを借りる。店の駐車場でちょっと一休みと爆睡、気が付いたら夕方の5時を回っている。帰宅は夜になっていた。考えてみると釣りをしている時間は20時間で丸々1日起きていた事になる。今回の釣りは無駄な時間を過ごした最長記録である。暗い中でのテトラや睡眠不足や疲労の中での無理な運転と一つ間違えると命とりになりかねない釣行でした。危険な場所と睡眠不足での無理な運転には、皆さん気をつけてください。 

 

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2013年

5月

24日

15.浜松町・辰金の真子鰈釣り

1979年頃からの話

 

会社で船を仕立て白鱚釣り、自然にそのまま白鱚の乗合船で通い始めた船宿【浜松町・辰金】無口で大人しい店主がいつもゴカイや青イソメ餌の面倒を見る。女将さんはチャキチャキの江戸っ子風でお客の対応、船長は息子兄弟で 秋からは春先にかけては人気の鰈釣りで『東海場』と『木更津沖』と二艘出る。顔なじみになると浜松町駅からの送迎バスの中で『今日はどっち』型ねらいよりも数釣りの『木更津』を選択する方が多かった。楽しみの一つが早朝、缶に薪をくべ囲んで暖を取りながらの釣り談義、キャプテン帽をかぶった名人にはあれこれと質問をした。それは船の中まで続いた。特に小突いて聞き上げる釣り方等嫌がらず教えてくれた。名人はいつも左舷ミヨシよりに、私は船長室近く左舷胴の間に席を取り、船長に色々教わったり話をするのが楽しみだった。当時はこんにちのように錨を入れてどうぞのタイムリー釣りではなく流し釣りで船下ねらい、すいている時は竿3本で真ん中は短竿で小突き釣りでハリス分ほど聞いてくると途中でコツコツと魚信、糸を送り込んで今度は魚信を確認しながら聞き合わせる。この釣りが実に面白くすっかりハマッてしまいました。ある時一人の御老人に興味を持った。何処かの御隠居さんといった感じで出船間近かにタクシーで駆け付け女将さんに手を取っ手もらいおぼつかない足どりで歩き、開けたミヨシよりの席にやっと乗り込み出航。釣り場に着き各自思い思いに釣り始める。ボチボチの出だしで釣果を重ねる内に何となく周りを見渡すと先ほどの老人、無言のまま目立たず良いペースで釣り続けている。しかも釣り姿は背筋がピンと伸び竿さばきは腕が竿と一体になり実に見事で『華麗(カレイ)な釣り姿』である。帰港後女将さんが手を貸しながら『どうだった』と声をかけると『ボチボチ』とタクシーへ。歳を取ってもこんな粋な釣りが出来たらいいな。
【浜松町・辰金】は時代とともに乗合船から仕立船へ仕立て船から屋形船へ

 

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2013年

5月

24日

16.Choさんと石鯛釣り、口が動いている

1979年~1982年の話

 

中途採用でK薬(製薬メーカー)に入社、諸先輩方の中に石鯛師ChoさんとOさんがいた。当然釣りの話になるが小物専門の私とはスケールが違う。ホームグランドは伊豆七島、特に式根島と利島がメインで『今度一緒に行くか』で『よろしくお願いします』で決まり。その前に実際にリールを投げられるかの予行演習兼テストで近場の勝浦へと言っても車を降りて小山を1つ越え地磯に出た。持参した両軸リール(道糸20号を巻いた)を見てもらう。良しで貸し竿の石鯛竿にセット仕掛けはワイヤー38番に石鯛鉤、すて糸に30号オモリの関東式仕掛け、餌のサザエは途中の店で小粒を選んで確か3kgほど購入、釣り開始で振りかぶって前方に投げる。大事なことはバックラッシュを起こさないように、オモリが着水と同時にベールを止めサミングしながら糸を緩める。(オモリが空中を飛んで行く時のベールの回転は速く、着水と同時に水圧でオモリはゆっくり沈むがベールは高回転の儘なのでバックラッシュを起し糸がグチャグチャになりほぐすのに時間がかかり釣りにならない)その他にはピトンを打って竿を固定する。カナズチでサザエの殻を上手く割る。魚信と合わせ方は口答で教わる。一連の動作はほぼ出来る様になり合格。気を良くして投入を繰り返すも、肝心の石鯛からのシグナル、魚信が無い。そんな折り後輩は後ろ向きで。海にあるスカリからサザエを3個ほど取りだしカナズチで殻を割り餌付けをしているとおもむろに先輩が『おい口が動いているぞ、共食いしてもしょうがないだろ、石鯛を釣ろうぜ』笑い声で、後輩は口をモゴモゴしながら『ごもっともです。すいません』ばれてしまった。2つほど鉤につけ1つは海水でサッと洗い口の中へ活サザエはコリコリして美味い。その後日陰で昼食を取っていると竿がしめ込まれ駆けつけたが石鯛らしき魚信はこれ一回のみで残ったサザエを頂き帰宅後食したがそれほど美味く感じなかった。あの環境とスリルが美味の元かな?

 

利島編

 
ChoさんOさん私の3人で竹芝桟橋へChoさんのイデタチは頭にタオルを巻きしょい籠を担ぎライフジャケットを巻き付けた石鯛竿を肩に掛け石物釣り師スタイルでカッコいい、それに比べて私は帽子をかぶりクーラーとカバンを担ぎ磯竿1本を持ちさまにならない。朝、利島沖に着きチャカが迎えに来て堤防へチャカはクレーンで陸の奥へしまった。ポイントは堤防の中間点で垂直に投げ魚信を待つ。水温が高いので私は鉤を小さくし石垣狙いでゴツン、ゴツンと魚信はあるが釣れない。途中でOさんとコマセを足元に撒きメジナ狙いに変更、Choサンは石物1本で粘りついに本魚信、体全体で合わせ魚をかけた。私には結構な手応えに見えたが本人は『小さい小さい三番叟(さんばそう)』と言って縞のはっきりした40cm級の石鯛を抜き上げたがその場でリリース。

 

 式根島編


3人でホームグランドの式根島へ港に着くなり離れ磯に渡船予定だがChoさんたちが誰かと話しをし軽トラに必要以外の荷物を積み運転(私は荷台に)『母ちゃん来たよ』と今日の泊まる民宿へ上がり込み荷物を置き港へ車を返し、磯へ渡る。ちなみに先輩たちは島民のほとんどの人を知っていてあの人は学校の先生、あの人は郵便屋さん等先ほどの一件も顔見知りに車を借りたのだなと。渡船で離れ磯に渡るも残念ながら石鯛は不発、夜に堤防でボチボチ釣れている赤烏賊(剣先烏賊)を狙う事になった。サーフライト(電気ウキ)に餌付き烏賊角を付けて投げる電気ウキがゆっくりと沈んで行き大きく合わせる。後はただ巻くだけ、と言っても水面から抜き上げ中に堤防の縁に当て2回も続けてバラシ結局3杯手中それと夕食が御馳走で特に鯛の様な白身の魚の刺身がとても美味。『市場に新鮮なトビが入っているけど持って行く?』『いくら』『1本100円』Choさん20本Oさん10本私も流れで10本』と注文、今食べた美味な魚で話を聞くと東京出荷でほとんどが料亭行きでスーパーには出回らない高級魚との事。見てみたらトビウオの大きいもの(45~50cm)で鮮やかな青色、結局クーラーの中は赤烏賊3杯とトビウオ10本で氷も入れると結構な重さ。やっとの思いで帰宅。田舎の叔父叔母と従弟が遊びに来ていて母と妻が料理の準備中、私が早速赤烏賊の刺身、次にトビウオを下処理し3本ほど刺身で出すと。こんな美味い烏賊は食べた事がない。次がこの魚は鯛?実に美味い。喜んで貰ってつい々得意顔になりふとテーブルを見ると皿が空っぽ、赤烏賊の刺身が楽しみだったのに残念。石鯛竿を2本買い揃えたが島へ行く機会が少なくなった。社内でChoさんとOさんの話に耳を傾けると東京湾で真ダコが釣れている。釣った真ダコは絶品で実に美味かった。これを食べたらスーパーのタコなんて・・。私も食べてみたいと近くの船宿を調べたら浦安の吉久。これをきっかけに『浦安・吉久』に通い続ける事になる。

 

 

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2013年

5月

25日

17.浦安・吉久

1979年~2004年頃?までの話
真ダコ編

 

会社内でChoさんとOさんの話に耳を傾けると東京湾で真ダコが釣れている。釣った真ダコは絶品で実に美味かった。これを食べたらスーパーのタコなんて・・。私も食べてみたいと近くの船宿を調べたら浦安の吉久、電話で確認を取り出かけた。隣の吉野家と並び大型船宿でマダコや大アジ等の出る釣り物の大きな看板が道路際に掲げられ釣り人も多く活況を呈していた。Yaさんと呼ばれている名船長で仕掛けはいたってシンプル、手釣り用の渋糸にナイロン先糸1ヒロ、フック付サルカンを介して石ガニを縛ったテンヤ。最初はYaさんに餌付けしてもらい、釣場に到着後ひたすら小突きまくるも。タコの乗りがどうゆうものかわからずひたすら釣り続けた。昼も過ぎ第2海保周りで小突いていると重さを感じ合せる。ズシッとした手応えで500g級の真タコが釣れた。船長も見ていてくれ頷いている。嬉しい。今日はこれまでで帰宅後家族で食したが美味。自前の渋糸の手巻きをそろえ、通い始めるとYaさんにも顔を覚えられ、色々と教えてくれる。『足が2、3本取れてもそのまま、タコの臭いが付いているから、また乗るよ。カニがボロボロになったり嫌だったら新しいのに変えていいよ』等、他の人はだいたい人指し指第1関節に渋糸をおき親指で押える形で小突く、私は人差し指の腹の真ん中から指先に渋糸をおき小突く。乗りを感じたら左手の親指、人差し指、中指でつまみ再確認、体を船縁から乗り出し、出来るだけ水面近くの渋糸を右手人ざし指第1関節と親指で確りと押え力強く合わせる。その後2手目3手目と強く手繰る。小突き方も、小さく小刻みに小突く、ゆっくりと大きくリズミカルに小突く2通りがある。大貫から竹岡沖の根の激しい所は糸を緩めずテンヤを立て気味にすると根がかりをわりとかわせる。冬になると浦賀水道よりの深場に落ちる。深いので大きく小突く事等と色々覚えて行き、数もそこそこ釣れ、鼻もちょっと高くなってきた頃、小突くと乗りの感覚、合わせるとズシッその後軽くなるのバラシ、次も同様のバラシ、Yaさんも『あれっ、乗ったんじゃないの』上げての合図でテンヤを回収、良く見るとテンヤの危険防止のためのサックが付けたまま、その後は順調に乗り2杯損をした。またある時はテンヤを損失、船長にテンヤとカニを貰う。他の釣り人に乗りが訪れ、地合いか?慌ててカニを縛り、海へほおる。『船長テンヤちょうだい』Yaさんが『あれ、また?』テンヤにフック付サルカンを付けずにほおった。テンヤだけ海の底。『馬鹿だねー』吾ながらあきれ返る。その後は吉野大船長が19トンの大型新船でタコ船に乗る事になったが実に話術が巧み、マイクで『ほーら乗った左舷ミヨシ2番良い型だ、左のトモにも来たよ。皆小突いてよ。右舷ミヨシにも、ああバラッしちゃった。残念』てな具合に実況中継してくれみんなを上手くあおる。知らない内に手に力が入り夢中になる。ある時に船長室を覘かせてもらったが船長いわく『計器類が結構するんだよね。それといっぱい計器が付いていて俺にも良く解んない?』その後は船長も若い人に変わっても通い続ける。ここの手製弁当が安くて美味かった事。難点は船から上がっても車が詰まっていて直には出られない事。途中から家が奥に引っ込み駐車場が広くなり緩和された。吉野店主の息子船長とも良く話をする様になりとても楽しくなった。釣り物も太刀魚やエビメバル、息子を連れての鯊釣りと増えた。通って20年を過ぎた頃に社内で屋形船の案内チラシ、ガスメーカーと我々ディーラーとの親睦会Iw会で屋形船・浦安吉久。費用はメーカーと会社が半々、『ここ俺がゆく』『いいよ、女の子も2人連れて行って』で浦安駅から送迎バスで到着Iw会幹事A課長に挨拶、店に入ろうとしたら幹事が『トイレはこっちだよ』店に入って店主に挨拶すると『いつもは釣りの格好をしているが、スーツ姿だと見違えちゃうね。始め誰だかわかんなかったよ』屋形船へ行くとYaさんと息子船長が法被を着て出迎えてくれたが、私の背広姿にびっくりしていた。出る料理特に天麩羅が美味しく、女子社員も楽しめた様だ。吉久の看板は真ダコもそうだが大アジもあり、一時会社の同僚Saさんを誘い吉久のタコ釣りに来ていたが彼が大アジにはまり、社内釣りクラブの会長兼師匠でもある私をやたら誘う。私は『嫌だ』を連呼していたが仕方なく1回付き合う事にした。東京湾口を出た所の水深100m前後のビシ釣り。大アジが掛かり面白いが恐れていた事が起こった。ミヨシの釣り人が糸をふけさせた(糸が太いのか?)トモの方にいる我々も巻き添えを食らった。各自、自分の道糸を切り、そそくさと釣りを再開している。私の所には道糸の団子が来た。良く見ると私の道糸も切られている。断腸の思いで高切れの道糸を切る。彼Saさんは私が腹を立てている事をまだ理解していない。この電動リールには烏賊釣り専用にブラウン系のPE4号がマッサラな状態で300m巻いてある。高切れで糸が足りない、糸と糸を結んで足すのもいや。で結局この糸を破棄、新しく300mを巻きお直した。予想通りの結果で自分に腹が立つ。もう安易に妥協はしないと。そんな訳で私はタコ釣りのみに集中です。ただ釣りをする皆さんにとっては吉久の様な船宿は釣り物の魚種が多くそれも季節ごとに旬の魚を狙って行く、とても便利な良い船宿である。そんな訳で一つの魚種タコしか狙わない私にとっては初夏の一時か師走に狙う。タコの魚影も薄くなった気がし足が段々と遠のく。 

 

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2013年

5月

25日

18.那珂湊港でサヨリ釣り

1982年頃の話

 

茨城出張最終日で後は帰るのみ、海が見たくちょっと那珂湊港で様子を見ると漁港入口の堤防際で水面を細長い魚が泳いでいる。鉛筆サイズのサヨリ、ムズムズとして近くの釣具店へ、3mほどの延竿、道糸、シモリウキ3個ヨリモドシ鉤ハリス付き、アミコマセ1kgブロック、同付け餌を購入その他輪ゴム、新聞紙、ビニール袋を貰う。アミコマセを指で摘まんでパラパラ、案の定サヨリが集まってくる。シモリウキは輪ゴムを通して止める。釣り始める。面白い様に釣れる。入れ食いでコマセもたまにパラパラ、サイズは鉛筆サイズばかりで飽きて来たが釣れるのでツイツイ釣り続け切りの良い所で納竿スーツ姿に新聞紙を下に引いて座り釣った魚はビニール袋へ入れている姿は滑稽な姿だったろう。ある時はスーツ姿に革靴で草原の中の川でヘラブナ釣り、この姿もちょっとおかしいよ。夕方直帰で自宅へ妻が『それなーに、何しに行ったの』無言、数を数えたら105匹で《サヨリ束釣り》で満足、その後サヨリを下処理してカラ揚げにして家族で食す。美味でした。

 

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2013年

5月

25日

19.出張帰り、ついでに師崎港出船でkさんと魚釣り

1982年頃の話

 

N課長と㈱K薬の子会社Kメディカルで医療器械の販売、ライトバンにデモ機を積んで三重県のディーラーに商品説明と同行で医療施設を廻る3泊4日の出張の最終日で仕事も終り親会社の㈱K薬名古屋支店へ挨拶。MR(医薬情報担当者)のkさんと話していると釣りをするとの事。話が弾んで明日休みなので釣りに行こうと話が決まり、上司のN課長にお願いと相談をすると『いいよ、オレは京都見物に行って来るから、明日の午後1時に此処に帰ってくれば』でOKkさんとは初めて会って意気投合、支店の2階に泊って明朝、師崎から船でメバル釣り、まさかこんな展開になるとは思いもよらず心が弾んで夜遅くまで釣り談義、翌朝真っ暗なうちからkさんの車で師崎港へ着いて早速船長に挨拶、(私達だけみたい)船長は私の姿を見てこんな人は初めてだと言って笑っている。ネクタイにスーツ姿、コート羽織って革靴を履いて船に乗り込む。仕掛けは藻海老をつけた胴つき3本鉤仕掛けで釣り開始、まもなく魚信で良型メバルをゲット、肩を並べて釣っているkさんにも来て好調な出だしだが、海は風が有り兎に角寒い、ワイシャツの下に新聞紙を巻いていてこれは良し、足元と特に首が寒く、鼻水が出て震えが止まらない。船長がみかねて、自分が使っている首から頭まですっぽりかぶれる腹巻の様な布を貸してくれとても温かい。船長の好意に感謝、その内に日も昇り温かくなり順調にメバルやカサゴが釣れ無事に納竿。車も順調に名古屋支店へ。上司のN課長と合流、kさんに礼を言い別れる。後部座席の下にはメバルやカサゴが入ったビニール袋が置いてある。東名高速をひたすら走って無事帰宅、妻が『それなーに、三重まで何しに行ったの』『だから仕事をして序でに魚釣り』と言いたいが『無言』妻が着ているコートのシミを見て『こんなに汚して・・・』『海で潮をかぶって』とも言わず『はいごもっとも』と忍の一字。夕食はメバルの煮付けで家族そろって美味い美味いと食べた。その後、私は出向が解かれ、Kメディカルから親会社の㈱K薬東京支店に戻り製薬メーカーのMR(医薬情報担当者)として仕事に励んだ。kさんは福岡支店に異動になり鹿児島県を担当し風の便りでは錦江湾で大鯛と格闘したりして頑張っているとの事。その後一度もお会いする事もなく。私にとって楽しい一期一会でした。

この随筆を書きながら一回しか会っていないので、それと年月が立ち過ぎていてどうしても名前が出てきません。と思っていたら『ポン』と出てきました。多分合っていると思いますが、あの後醍醐天皇に忠誠を尽した私の好きな知将『k正成』と同じ名前だったかな。?

 

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2013年

5月

25日

20.意外な餌で残りマスをゲット

1982年頃の話

 

山梨県笛吹川の上流部に川から水を引き、2つ並んだ池があるマス釣り場に良く出かけた。上の池から下の池に水が流れているがその他に斜め上にある太いパイプからも勢いよく水が流れている。何時も半日釣りを選び釣った分持ち帰る事が出来きる。餌はイクラかブドウ虫で、私はブドウ虫を選択、小魚の活き餌は禁止と記憶している。魚の放流は釣り人が来た時や昼頃に太いパイプから放流され、その時が一番のチャンス太いハリスで効率よく釣り上げる。その後の残りマスを如何に釣り上げるかが腕の見せ所である。渓流竿に玉ウキ1つのシンプルな仕掛けで偏光メガネで観るとマスが流れの上流部に向いていて何時でも餌が流れてきたら捕食出来る姿勢でいる。私は竿先を震わせて玉ウキがコチョコチョと上流部へ上がって行く、もとへ流して行くの繰り返しの誘いで釣っているが今回苦戦を強いられている。がただ一人太いパイプの左横でよく釣っている人がいた。私は向いの右横で釣り人の様子をみて見ると魚釣りはしているが、時どき竿を置き席を外す。私に背を向けしゃがんで餌をつけている。見て成程と納得、私も餌捕りで同様に席を外す。岩魚や山女、虹鱒もフィッシュイーターで、岩魚等は蛇をも食べると聞く。餌をつけようとしたら『羽根は半分くらい切った方がいい、鉤は背中からお腹へ抜き竿を操作して餌を潜らした方が魚信ますよ』と親切に教えてくれた。その様に操作するとウキが綺麗に潜り合わせて釣れた。餌の赤トンボ捕りでかわりばんこに席を外す。ゆっくりとしたペースの入れ食い、気のせいか掛かるマスも大きい。30匹ほど釣れたので早めの納竿。洗い場、包丁でお腹を割き内臓とエラ、血あいを取り除き塩を引いてビニール袋に入れ持ち帰りました。禁止している釣り場は別として皆さんも試してみてはいかがでしょうか、今回の赤とんぼはキラキラした大きな目がマスに有効だったのかなと思いますが。バッタやコウロギ等で試して見るのも面白そうですね。

 

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2013年

5月

26日

21.杉並区和田堀公園内釣り堀『武蔵野園』

1982年頃の話

 

ちょうど桜の花が咲く時期、仕事も一段落、食事でもと車を走らせ和田堀公園内で目に止ったのが武蔵野園と言う看板でヘラ鮒、大鯉、小鯉、金魚と釣り物が各種ある釣り堀、中に入って様子を見る。店内も広く軽食喫茶が有り私はカウンターでラーメンを食べコーヒーを飲みながらカウンター越しに店主と話をする。『旦那さん釣りはするの』『釣り大好き』『ちょっとやって行く』『じゃーちょっとね』で小鯉釣りが入れ食い。あきて金魚釣り場へ1時間釣りをする。この地区を廻る時は必ず昼食がてら今度は大鯉釣りとちょっとの間、気晴らしに汗をかく、やはりヘラ鮒釣りが魅力だが道具がない。店主は受付でその気持ちを察したのか、頭上の棚から取り出しこれ貸すから奥の広い池でやってみる?とヘラ竿1式、ヘラウキ仕掛け付き、2つ返事で竿を握っている。そんな訳でその後は釣りをしたりしなかったり、カウンターでコーヒーを飲みながら店主とお喋りをするのが楽しみになっていました。正月も開けた頃いつものようにカウンターで店主がすみにいる男の子2人を指して『向こうが家の倅、隣が貴乃花の息子でこの間、倅が大関の家に遊びに行ってお年玉を沢山貰った』と得意そう、かわいい小学生を見て『ヘエー』とうなずく。今思えばたぶんお兄ちゃんの方だった気がするがいずれにしてもその後は兄弟とも父と子ではなく親方と弟子の関係になり、厳しい稽古に耐え精進し両方とも立派な横綱になった。たいしたものだと感心する。余談ですがちなみに私は当時安芸の島関の大フャンでした。またある時店主と野球の話になりました。私も学生の頃少しかじっていましたので興味があり、店主の話に吸い込まれて行きました。特に高校野球には並々ならぬ情熱を持っていて自分の息子をリトルリーグに通わせるほどの熱心さでした。『早稲田実業に入って甲子園に行くのが夢』『何故早稲田実業なの』と聞き返すと店主も高校球児で東京大会で早稲田実業にくしくも敗れた。その時のピッチャーの球がとても早くて打てなかったそうです。その時のピッチャーの名は『王貞治』。夏は夜釣り(ナイター)もあり照明施設も揃っている。ある時の夕方に店主が『ちょっと見て行く』『うん』釣り堀と釣り堀の境の中央付近にネットをはり何やら準備をしています。バッティングマシンが備え付けられ、山盛りに積まれた硬球のバケツが3つ、息子さんがヘルメットをかぶり金属バットを持って中へバッティング練習が始まった。父親である店主がマシンの後ろでボール操作、私に『ちょっと打ってみる』ゲージの中へ、わりと至近距離で中々芯に当たらないが店主から『やっぱり野球をやっていたね』その後は親子でぴったり息を合わせてバッティング練習、バッティングマシンがあるのも驚きだが、目標に向かって進んで行く親子、とてもほほえましく感じた。大分月日が流れたある日ぶらりと武蔵野園に顔を出すと少年だった息子さんは立派に成人しており、後を継いでお店で焼きそばを作っていた。その当時の話をすると店主が出て来た。髪の毛は少し白くなったが昔と変わらない『で甲子園はどうなったの』と聞くと『早稲田実業ではなかったが国学院久我山に入り甲子園に出場し活躍した。テレビでも親子鷹として取り上げられた』と目を細めて嬉しそうに語っていた。夢がかなって本当に良かった。 

 

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2013年

5月

26日

22.江の浦堤防、Oさんとよた波・木更津沖堤

1982年頃の話

 

Kメディカル時代の得意先のOさんとは意気がぴったり特に釣りの事になるとツーと言えばカーで釣行前日(土)の晩にOさん宅におじゃま、1泊して早朝、Oさん家の軽トラックでホームグランドの江の浦堤防へ到着、風がややあり堤防のコの字型堤防先端やや水しぶきが上がっている。私は仕度をし『さあ行こうか』彼は『ちょっと待って、もう少し様子を』と堤防先端を見つめている。私は何も疑問を持たず、だが彼の眼には引っかかるものがある。理由を聞くと『この波だと10分に1回くらいよた波が来るんだよ』しばらくして『ほらほら』先端を見ると波がザブッと堤防の上をかぶった。クーラー等の道具は流されていただろう。前回夕まずめに燈台の陰に隠れながら波をよけ尺級のメジナが入れ食いだったと嬉しそうに笑顔で話す、さあ今日はどうかなあ、釣り始めるもウンともスンとも言わず、時間だけが過ぎて行き移動、真鶴港での釣りとなりメバルと海タナゴをそこそこに釣り納竿となる。『よた波』一つ勉強になった。そう言えば以前にも木更津の沖堤防でも同じような事があった。Hさんと夕まずめ狙いで午後から渡船、夕方になって何艘かの小型船外機ボートが猛スピードで帰えって来た。海は波静かだが私は異常を感じ竿をたたむ。釣友のHさんにも促す。彼も渋々竿を仕舞う。やがて急に海がざわつき出し突風が吹き出し海は荒れ出した。遠くの方から渡船の船たちが近ずいて来て沖上がりの知らせ私たちの栄宝丸は沖側の堤防から順次釣り客を乗せている。大きな堤防上の一部に波がかぶる。隣の釣り人のクーラーが海へ、堤防に打ちつける波の力か上からカラス貝が降って来る。何とか間に合って無事帰港出来た。急な天候の変化をいち早く漁師さんの船が教えてくれた。我々は救命浮き輪の置いてある場所に釣り具1式を置き船が来る前に準備を終えていた。他の釣り人は船が来て異変に気が付き乗船が遅れた。皆さん風と波には十分に気をつけましょう。 

 

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2013年

5月

26日

23.東雲ちどりや・七福神会

1984年~1999年頃

 

『浜松町・辰金』が乗合船から仕立船になり白鱚・真子鰈釣りを何処の船宿にするか迷ってた時期に、暁埠頭公園(13号埋立地)でメバル・セイゴ釣りの餌をいつも購入した餌屋が『東雲・ちどりや』でスポーツ新聞や釣り雑誌には名前が乗っていないが歴然と乗合船を出している事がわかり、通う様になる。来る人は皆常連ばかりでそれも名人級の凄腕が揃っていた。私も腕はそこそこと自負していたが皆の腕を認めざるを得ない。彼らも私を仲間として認めてくれた様子。(雇われ)船長のWさんも凄腕で男気のある木場職人この中で和気あいあい、私も揉まれることになる。店に着くと店主やおかみさん、Y○屋さん、Arチャン、Kチャン、Nツァン夫婦Tチャンと集まって来て和気藹藹で話をしている。全員集合するとリヤカーに各自の道具や竿を積み船着き場へ、早く来ていい席の確保はここではない。自然に自分の席が決まっていて、私はいつも左舷胴の間、左舷トモはいつもY○屋さんで沖に着いても泥酔状態でスパンカーロープに背を持たれながらの釣りから始まるが我々が先生と呼ぶ通り三本の竿を上手く操り、気がついたらシャンとした状態で何時の間にか鯊など竿頭になっている。釣り物は季節で白鱚、鰈、鯊、ここに真鯒やイシモチ等が状況により入って来る。船長のWさんが残念ながら病気で永眠。ある時、江戸川区の名船宿にこのメンバーで鯊釣り釣行。私がArチャンの隣へ席を取ろうとすると『こっちへ来るなよ。皆バラバラに入っているだろ、名人が2人並ぶと魚を釣りきってしまうから、おいら達が別の船宿へいけば皆竿頭の腕だからな』実際に釣り終わって見ればメンバーが釣った数が他の釣り客の数を圧倒した。私の隣の釣り人も私の釣るペースを見てお上手ですねと言っていた。木場職人のTチャンとAチャンが船長で乗る事になった。それとY○屋さんが来なくなるが他のメンバーは変わらない。そこで私がメンバーの会の名前を付けた『ちどりや・お笑い七福神会』メンバーはAr・K・N夫婦・T船長・店主・M(私)の7名から始まる。Arチャンのお兄ちゃん・やSさん・Tkのおじさん等と和気藹藹、船を下り、帰る時の挨拶が『じゃあ、また来週』と毎週のように釣行が続いて行く。春が来るといよいよマゴチ狙いのキス釣り富津~大貫でメゴチやキスを餌に釣り、私の席の胴の間でもマゴチ狙いの竿を3本並べての釣りで3本全てに魚信が来て慌てる事も有り実に釣りが楽しい。また店主からアナゴ漁に出てアナゴが獲れたから取りに来ての連絡で、綺麗に背開きした丸々と太ったアナゴが10本、他のメンバーにも同様の連絡をしたとの事。そんな親しみやすいちどりやの店主が船着き場で倒れて永眠した。真子鰈の時期になると皆が夢中になる。タイムリー釣りで羽田沖や横浜沖で40cm級の良型が上がっていた。私にとっては仲間と同じ魚を狙い、釣り続けた中身の濃い15年でしたが船着き場がある通称16万坪が東京都の埋め立て地となり、船着き場が消滅、餌屋さんとしてのちどりやさんも東京都の土地であり店終いとあいなった。私にとってはお世話になった皆さんに感謝の気持ちでいっぱいです。

 

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2013年

5月

26日

24.鹿島港・清栄丸の夜イカ釣り

1998年~2003年頃の話

 

ある釣り雑誌に鹿島港・清栄丸の夜スルメイカ釣りの記事が載っていて電話確認と予約を入れた。その当時イカ竿も電動リールも持っていず。船長にじかに竿先の調子を見てもらい、竿掛けとカウンター付きのリールを使用、その他は点滅式の水中ライトと5本角のイカ仕掛けを購入、船は2艘でもう1艘は大船長とその弟さんが中乗り、夕方の5時頃出船でそこそこに走りパラシュートアンカーで流しっぱなし、暗くなってきたら漁火のライトが点灯し船と周りの海だけが明るい。その内に海の水がブツブツし(たぶんプランクトンが集まって)小魚が泳ぎまわり、その外をシイラが悠然と泳ぎ回る。とても幻想的な風景の中スルメイカが釣れ始まりタナが50mから30m、20mと浅くなる。慣れないイカ角をさばき右往左往しながらただ夢中に釣りまくり午後12時の納竿。イカ釣り初めての私は53杯で小さなクーラーに氷を入れて満杯、他のベテランは軽く束を越えている模様。下船後常連のMさんに案内してもらい船長宅へ、イカ飯を御馳走になり、はなれの部屋に私一人泊る(宿泊無料)翌朝の午前中に帰宅。次回には沖漬けのタレを用意して釣行、この日は1杯しか釣れず。こんな日もあるんだと納得、夜イカは満月が一番良くない。夜空が明るすぎ漁火が利かない為(新月は良いらしい)。その後は電動リールを買い、30Lのクーラーもそろえる。(最初50Lを用意したらイカを入れたら持てないので)この後は紫イカになり3本角仕掛けで大船長に乗る事も多くなりスジイカも結構混ざり気さくな中乗りの弟さんにも色々と教わった。初の紫イカは80杯にスジイカもいて大きいクーラーでも入りきらないし持てないので小さなクーラーへも小分けした。帰港後はいつも宿泊して帰る事にしていた。理由は居眠り運転と、早く着き過ぎ妻を起こす事になる為。それと疲れが取れるので。よく年はそれをいい事に朝6時出発、水郷地帯のホソで真鮒釣り遅い昼食を取り漁港へ、当時は清栄丸の船着き場前の駐車は2台だけ(後は離れの駐車場へ)早めの駐車場入りでゆっくり一休み、夜イカ釣りが終わって宿泊、翌朝には牛丼屋で朝食を済ませ、また水郷地帯のホソで真鮒を釣り早めの帰宅の釣行スタイルになる。ある時の昼食、道に迷いながら手打ちの蕎麦屋を発見、蕎麦が実に美味い。饂飩もあり序でに饂飩も食べたがこれも美味い。次の釣行時もここで食べたいと2時間ほど場所を探すも分からずじまい。ちゃんと目印等をメモしておくべきと反省。船長の船が綺麗で大きくなったが、その船での紫イカ釣りで角をシャクッていると誰かとオマツリ?船長が通りかかり『ちょっと貸してごらん、誰かマツってない?』すぐ外れたが、そく船長室へ『サメがいるからイカがかかったらさっさと上げて、サメに食われるから』サメかよと思いながら船縁から仕掛けを入れようとしたら2mはゆうに有りそうなサメが船影から悠々と、私は腰が引けて座り込む。船長はデカイ鉤にイカをぶら下げたロープを持ち『サメは何処だ』船長は釣る気でいる『サメを釣ってどうするの』サメをかけ頭を叩いて放すと他のサメが集まって共食いをする。その間に船が離れて行くとの事・・・なるほど。帰港後は船長宅の近くに一軒屋があり今度はそこに泊れる事になった。30人ほどがゆうに泊れるほどの部屋があり布団が置いてある。当然無料であり、大きなリッカーのボトルに小銭が入っておりいつも心付けを入れ、湯を沸かし持参のカップラーメンをすすり床に着く。一人の時が多く心細い。ある時、船から上がり宿泊先の一軒屋の庭に車が止まっている。私が玄関のドアを開けると話声がピタッと止まる。若者の何人かが話をしていた。挨拶をして話を聞くと明朝、仕立で青物のジギングだそうだ。彼らはとてもさわやかな青年だなあと思いながらカップラーメンをすすり床に着く。明朝話声で目がさめ、寝ボケまなこでトイレへ。廊下を通りながらチラッと目に入った後ろ姿にドキッそのまま寝床に入り、彼らが外の庭に出て居るのをこっそりと窓からのぞく。外には黒ベンツに黒のワゴン車。20人ほどの若者の中にリーダー格が指揮を取って居る。全ての若者の背中には入れ墨が、彫られている。中には彫る途中の青年もいて、こんなに大勢さんの背中は見たこともなくただ驚き、布団の中へ。次回の釣行時に船長にその話をすると『うんテキヤさん(縁日等の夜店をしきる)の方たちで皆気持ちいい人達だよ。たまに乗るよ』とケロッと答えた。 

 

2006年~2008年頃の話

 

誠実で大らかな船長が気に入り、毎年イカの時期が来ると通い続けたが途中から忙しくて2日続けて休みの日が取れず。久しぶりに行くと船長はお亡くなりになり、大船長も体が不自由の様で船をおり、美人の妹さんが店をしきり親戚の島津船長と温和そうな佐藤船長で操舵、船も大きくなり高速で大きな波も切って進み快適、船着き場も広い所に移動、イシガレイ釣りにも通う様になった沖上がり時には大船長の弟さんがイシカレイの石を取ってくれ生き締めのサービスをしてくれた。その後もイシガレイやイカ釣りと楽しんだが早めの定年で職を変え、土、日、祝日とまた続けて休めなくなり釣行出来なくなり今現在も御無沙汰中です。 

 

初めて買った電動リール

釣りで高額の物はほとんど買った事が無かったが、前から電動リールがほしい。妻にカードで買ってもいいか交渉。毎月のお小使いから1万円ずつ引く事で話がまとまり、量販店へダイワ・スーパータナコンS 500 ¥39,800‐+PE4号300m+バッテリー=¥56,000-?だったと思う。約束通り毎月のお小使いから1万円ずつ引かれ私も意識散漫になっていた。6回目も1万円引かれ気がつくのが遅れたが妻にクレーム『ああ、あれね、利息分よ』と軽くかわされた。もし同じような方がいらしたらお気をつけて。時が立ち今の電動リールは大き過ぎるのでもう1台と『洗える電動リール』のキャッチフレーズに負けダイワ・スーパータナコンS 500DXを¥34,000-で購入、当時の電動リールの中では格安だったからか、この電動リール紫イカを3杯乗せるとうーうーうなって今一力が無い様にも感じられ、今はもう古い気がするも愛用している。そしてどんどん新しい機種が出て来ているそしてついに私のほしい画期的な電動リールが出ました。

 

ダイワ シーボーグ 300 MJL 電動巻きは真ん中で手巻きは左ハンドル
    シーボーグ150 JL も同様で電動巻きは真ん中で手巻きは左ハンドル
問題は価格です。私には手が届きません。もう少しの我慢です。
  

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2013年

5月

26日

25.西伊豆・木負でのボート釣り

1977年~1998年頃の話

 

㈱Tの社員慰安旅行で西伊豆・木負(きしょう)にある船のホテルスカンジナビア号に宿泊、翌日Hさんとボートを借り釣りをする。店名は杉本ボートで店主(おやじさん)はバンカラ風で良く通る太い声で今釣れている魚を詳しく教えてくれる。店内では朱色で大鯛の魚拓や30㎝オーバーの白鱚の魚拓が所狭しと並んでいる。ここはどん深で少し漕ぐともう水深20m以上あり注意事項は、直接養殖生簀には係留してはいけない。付けるとしたらその外の発泡スチロールの大きなウキブイにつける事。漁師さんとトラブルを起こさない事。我々は青イソメで河内川の流れ込みからスカンジナビア号の側を流しながらキス釣り、その内居眠りをしながらの釣りで置き竿に魚信、十分な手応えでビッグサイズの白鱚を取りこんだ29.5㎝で今でも私の記録である。やはりここ木負のメインはやはり大鯛で独特の釣法で釣る。ちょっと紹介します。

撒きコボシ釣り:手釣りでシンプルな釣りである。糸は決めた分だけ出しておく。薄っぺらい石を大量に船に積み。その石を1つ取りその上に餌を付けた鉤を置きさらにその上にコマセも乗せる。石にハリスの糸でぐるぐるとある程度巻く、それをそーと海の上に置き糸を送り込んで行く決められた処まで来たら糸が解けて同時にコマセも散る。鉤についている餌も海中を漂う。シンプルイズベストの仕掛けで魚を掛ける釣りである。やって見たい釣りだが私には多量の石が揃わないので無理。その後の私は家族とお盆休みに山梨の妻の実家に行く。その度に山梨から木負へ夜には堤防の根元に有る駐車場の岸壁で黒鯛を狙い仮眠、翌朝早くから杉本ボート店で半日釣りをし、また山梨に戻るを20年ほど続けた。1年にいっぺんの釣りである。釣果のほとんどが18Lのクーラーの底が魚で隠れて見えないほどの釣果。最初の頃は岸壁でいつもカイズの型を見た。ボートではイサキの若魚(ウリンボウ)がサビキ釣りで入れ食い(約80匹)やシマダイ25cm級やシマイサキの引きの良かった事や生簀のロープ下では良型カサゴの数釣り等と面白かったが、途中から釣り専用ロープが出来、ここで釣りをしなさいとの事。他の生簀回りは御法度です。仕方なく専用ロープでコマセの真鯛狙いで朝の第1投コマセをまいて竿いっぱいまで誘うと魚信、合せるも真鯛の様な手応えはないが何かが掛かっている。コマセカゴを中に入れハリスを手繰り寄せ船に抜き上げると40cmのヒラメでガッツポーズ。ただこの場所ではウマズラ等がつれたがその後は良い釣りをしていない。ある時スカンジナビア号の付近の流れ込みでキス釣りをしていると中年夫婦のボートが近づき『キスは釣れる?』『この辺でボチボチ』するとおもむろに仕掛けを入れ竿がしなっている。見ると良型の真鯒を次々に上げている。餌を聞くと鰯で少しお裾分けと死んだシコ鰯を5匹ほど貰う。下あごから鉤を通し、仕掛けを底にはわせ、艪を漕ぐと生きていると思い餌に飛びつくとの事。実践してみると魚信があるが上手く鉤がかりしない。餌5匹でやっと1本釣り上げた。翌年からは小型クーラーに活き泥鰌を持参し意気揚々と釣り開始する。中々思うようには釣れず海水に浸かり泥鰌がすぐに弱るも粘って真鯒やマハタの若魚等も釣れた。またある時の事、釣りを止めてすぐ近くのボート店に戻ろうと艪を漕ぐがいっこうに進まずやっとの思いでボート店についた。大変疲れた。きっと潮の流れが速かったのだろう。それとその当時の船外機エンジン付きボートは確か1日¥5,000-と大変に安かったと思う。そんな訳で1995年に小型船舶4級操縦士の免許を取りその後は船外機エンジン付きボートで楽楽釣行となった。その後お盆に長い休みが取れなくなり1998年で終わりにした。 

 

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2013年

5月

26日

26.小型船舶操縦士免許取得

1995年~小型船舶4級操縦士免許
2005年~小型船舶1級操縦士免許

 

西伊豆木負の手漕ぎボートで齢を感じ、船外機ボートでの楽楽釣行がしたくてJEIS財団法人日本船舶職員養成協会を受講、筆記講習は麹町の海事ビルで順調に終了。実地講習は江戸川で4名グループでの行動で講習が始まった。先生の人間味のある厳しい指導。心地良い緊張感で講習時間が過ぎて行き、仲良し4人組のいよいよ実地試験当日。車の免許を取ってから25年ぶり緊張でコチコチ.小型モーターボートには試験官1名受講生2名乗り私が最初の運転で声を出しながら点呼確認、スタート地点までゆっくりと進む、その間に後ろの受講生に口答試問が矢の様に浴びせられる。スタート地点から点呼確認スタート順調にクリアして行き難しい離岸、着岸救命フカンも無事終了もう一人と運転を交代、ホットした矢先に口答試問、シドロモドロで必死に答え仲良し4人組全員合格免許取得(平成7年10月取得)小型船舶4級操縦士免許を取得すれば船は5トン未満、距離は岸から5カイリ未満の海域を航行出来る。 翌年には西伊豆木負で緊張しながら船外機ボートで釣行、それと東京湾走水近くの伊勢町『海勇丸』船外機のボート釣りもここから始まる。免許更新は5年ごとで10年目に追加講習を受け小型船舶1級操縦士免許を取得。海図の見方や航海計画等難問が多かったが船は20トン未満、岸から200カイリ未満を航海出来る免許である。ところでマイボートはと聞かれたら『ありません。経済的にも、置く場所もないし無理です。』今まで通りレンタルの船外機ボートで行きます。

 

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2013年

5月

26日

27.伊勢町・海勇丸

2000年~2017年

 

船外機ボートでの真子鰈釣り

 

東雲・ちどりやのカレイ釣りに行かなくなって何処かと探していたら走り水伊勢町・『海勇丸』船外機ボートがあり大真子鰈が上がっている。以前若い時に隣の三浦ボートさんでキス釣りをし、あまり釣れなかった記憶がある。電話で予約して釣行、店主の藤野忠宏さんは一言で言えば『誠実』で、まず船外機ボートの扱い方を懇切丁寧に教わる。釣り場に関しても、『釣れていない』とか『ここの所、沖のノリヒビの右から2番目が上がっている』とか根周りは海勇丸独自の海図を見せながら『この堤防をまっすぐ出て沖へ300mぐらい行くと左側の小学校の建物と後ろの○○が重なった所で右側は・・・』とヤマダテを教えてくれる。『今日の風だと持ちそう』とか『南は良いが南西だと・・・』と言った感じ 鰈釣りに戻るがここの鰈は型が良い。私感だが平均32cmがアベレージサイズ。初釣行の時は30㎝クラスを3枚ほど釣り上げ好調でまた魚信があり気分良く合せて掛けた。快調にリールを巻いて来たがボートの影を見たのか突然強い突っ込み、大きさは判らないが2号のハリスがプッツリと切れていた。次の釣行からハリス3.5号、鉤も鰈鉤の12~13号と大きくした。そしてこの年(平成12年)の12月に43㎝、翌年2月には47cmの大マコをゲットその後も波はあるものの順調に型を見ている。それも40㎝級が良く混じる。平成19年にも47㎝を釣り上げており。『釣りが出来る間に50㎝オーバーをここの海で釣りたい』の夢がある。ただ残念なことに平成23年24年と温暖化の影響なのか不漁である。私も初めて坊主を食らっている。来年には好転してほしいと願う。 

 

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2013年

5月

26日

28.釣り行脚、内房の港、夜釣りで肩にズシッ

2003年頃の話

 

毎年暑くなると内房方面に車中1泊の釣り行脚に出かけている。前にある港の日中釣りで小メジナや海タナゴで好釣果を上げた事があり、ここで夜半に狙えば型も良くなるのではと期待して釣行。右側の堤防はコの字の先端まで続き外側はテトラなので入り口から内側の辺地を狙い。渓流竿に電気ウキ仕掛けで流す。アミコマセを撒きながら付け餌(ジャリメ、アミエビ)をつけて釣り始める。燈台の薄明りで沖をながめると静かでのっぺりした感じで波の音すらしない。真っ白い船同士がこすれて『ギィギィ』と音がするだけ。その後しばらく釣り続けるも餌取りすらなく。人影もなければ船のこすれてきしむ音しかしない。薄気味悪い。しゃがんで餌を付けていると足元から背中の方にかけて『ゾクゾクッ』何かが走ったがそのまま電気ウキの周りにコマセをまきながら釣り続けた。気のせいか、何となく体が重い。岸に近ずけない。近寄ったら海に落ちそうな感じで急に恐怖を感じ、そそくさと片付け始める。コマセも海に開けられない。近辺の水洗い掃除も無しで帰り支度で歩き始めると肩が少し軽くなるも、車に戻り急いで国道を走り出す。一度そんな気持ちになるともういけない。今度は後部座席に誰かがいるような気もする。どこをどう走っているのか解らないまま途中左側の寂しい道に入り走り続けた。まもなく肩がすーと軽くなり、首も楽になった。富津方面の埠頭に着き休憩(朝までぐっすり寝た)。後日サーフィンをやる会社の同僚に話をしたら、きっと霊が取り付いたんですよ。無事でなにより、我々でもお盆はひかえています。・・・後で地図を見ると近くにはお寺もありました。それ以後は気をつけています。と書きたい処だがお盆休みはつい釣行してしまいがちです。

 

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2013年

11月

07日

29.鹿浜・松陽丸

2005年~2019年

 

東雲・ちどりやの船着き場が東京都の埋め立てでなくなり、さて東京湾での白鱚やカレイ釣りに何処から出るか。釣り情報誌で探していたところ『釣り場速報』で『鹿浜・松陽丸』が目に止る。理由は自宅から近いから。早速に電話予約して乗船して見ると通常はam6:45出船で沖上りpm2:30で私にとって朝はゆっくり、帰りは高速の渋滞もなく外が明るいうちに帰れる。朝早く行って釣席の取りっこもなく、穏かに出船、環七の鹿浜橋を潜って荒川をゆっくりと下って行く。途中、船宿等の船着き場を通過時は引き波を立てずにゆっくりと進む。ゆったりとした気持ちで船上から周りの景色を眺めながらの船旅もいい。やがて東京湾に出て目的地に向かって速力を増す。ここで『よし今日も釣るぞ』という気が湧いてくる。乗船客を見渡すと、友達同士や親子連れで和気藹藹、そこに常連のベテラン釣り師も混じりほのぼのとしていて良い。これは謙虚でおだやかな船長の人柄のせいもあるのだろう。船長自身も数にこだわってギスギスと張りつめた雰囲気を望んでおらず。一日楽しく釣りをして貰いたい。ただし1匹でも多く釣れる場所、場所をデーターを基に、また同業者の情報を得ながら積極的に移動を繰り返す姿勢が好釣果につながる。そして釣り人全員の様子を暖かく見守っている。そんな中で苦戦している釣り人には適切なアドバイスをしている。此処は予約乗合でHpを見ると釣り物予定、予約状況、最近の釣果報告と明確に状況が判るやはり(土)、(日)、(祝日)の出船が確実でサラリーマンにはピッタリ、気にいって釣行していたが早めの定年退職で、次の就職先の職場が土、日、祝日が必ず出勤で中々釣行出来なくなった。今度また職場の異動がありたまには休める様になり現在に至る。ビギナーや友達同士、家族連れにとっては余計なプレッシャーをあまり感じず釣り易い船宿だと思います。また釣り技が少し上達して良い席に座れば竿頭になれるかもしれないと腕試しをして見たい方にも適した船宿かもしれません。

 

 

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2013年

5月

26日

30.那珂湊・つれたか丸

2006年~2014年

 

以前トキオの『鉄腕ダッシュ』で長瀬さんが船長で浜にある古船を船大工と一緒に修理し大海原へ最後は大間で鮪を釣る番組があった。ユニークな船名で『つれたか丸』茨城に同名の船宿があると聞き丁度私の好きな真子鰈釣りだったので乗船、釣果もそこそこにあり満足、伊藤義勇船長の第一印象は怖そう話して観ると独特の茨城弁で実に気さくで面倒見が良い。そんな訳で通い続ける事になる。冬にかけてはこれも私の好きな真ダコ釣り。東京湾と違ってタコテンヤの錘は130号と重く餌も石ガニではなくサンマをつける。これに乗る真タコは型が良い。それに魚影も濃く数が出る。仕掛けの上につけるヒラヒラも赤や白の布切等ではなくクリスマスではないがあの目立つキラキラの飾りを大きくつけると真タコがその魅力につられて良く乗る。私は操縦席も近いトモの席によく座り魚短も見え船長とジョークを飛ばしながらの楽しい釣り。そんなある時タコ釣りが初めての釣り人が私の隣にと言っても胴の間に座り私を始め他の釣り人が皆釣っているのに釣れていない。タコらしい気配で乗ったかなぁでもバラシで疑心暗鬼になっているようだ。船長も遠くから来てくれた釣り客なので気が気でない。飾りをチェックしてみたり、先糸を替えて見たりで何とか釣って貰おうと一生懸命。その時、私も昔の自分を思い出し《もしかして》と確認、私が『船長これじゃあ1日やっても釣れないよ』と言うと船長は怒った感じで『なんで』船長と一緒にテンヤを確認、船長がいつもテンヤを渡す時に『ハリ先の安全サックは釣る前に外して下さいね。』と言っているそのサックが付けたまま。これでは釣れない。その後の釣り人は続けて真ダコを上げ船長は玉網でアシストしながらほっとしていた。常磐の海は真子鰈にしろ真ダコにしろ魚影が濃いし船長の得意とする魚種でもある。最近船が5tから15tと大きくなり広い船室も有りお客さんの為にもと船長は喜んでいるが私は船長室と言う仕切が出来て目と鼻の先で話が出来なくなり少し残念。釣り物はその時々の釣れる魚、例えばヤリイカが釣れるとヤリイカ専門もしくは真子鰈とのリレー釣りとか臨機応変にお客さんの要望に答えて行っているようだ。今後も好きな真子鰈や真ダコの数釣りに期待して今後も通うつもりです。 

 

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2013年

5月

26日

31.鶴見潮見橋・新明丸

2008年(真ダコ)2010年(墨烏賊)~2016年

 

伝統あるテンヤの墨烏賊釣り


随分と昔の話になるが東京湾で真ダコ釣りをしていると同じラインを流している他の船を3隻ほどよく見かけた。その中の1隻が『新明丸』隣の芝は良く見えるの例え話ではありませんがこちらの船はほぼ満席、あちらは程よいスペース。釣り人の数が少ないほど反比例して真タコの割り当て量が多くなる気がして、最近では釣行回数もぐんと減り、釣果も今一、では1度釣行をと鶴見潮見橋・新明丸に。江戸前風の良い感じの船宿で真ダコ船を操舵する高橋船長は一見無口でおとなしそう。我々の釣り姿をきちっと温かい目で見守っている。色々と質問をするとそれに対してはきびきびと返事が返って来る。良い感じの船長で、私の好きな旧日本鋼管の岸壁も流すしそれなりの釣果も上がった。そんな折り常連さんとの釣り談義の中で『いよいよ10月からテンヤの墨烏賊釣りが始まる』私が『墨烏賊は難しんでしょう。ベイトリールで遠くへ投げなければいけないし』『いいや船下で十分に釣れますよ』以前に墨烏賊にトライしたくて安い墨烏賊竿とリールは揃えていたが何となくむずかしそうで気が引けていた。2010年10月18日から墨烏賊担当で社長の新明利勝船長に一から教えを請う事になりました。それとここは墨烏賊釣りの大ベテランの常連さんが多く、そんな方々からも色々と教わりました。別項目の自己流・魚の釣り方の中の『伝統あるテンヤ(活シャコ餌)を使ったスミイカ釣り』に書きましたがまだビギナーで間違って聞いている、もしくは理解している部分もあるかも知れません。その時はどうかご容赦願いたい。利勝船長は実釣開始から私の釣り方を観察していてその都度良いタイミングでアドバイスをくれる。若船長の新明慶樹船長にも色々と質問をして気がついた点を教わった『イカの乗る前の前触れなんかあるの』『それはこれこれ・・・』といった具合に。墨烏賊はシャクリが命、その良いシャクリがわからない。初日は何回シャクッテも乗らない。午前中0《ゼロ》午後も同様で納竿が近ずき、やっと乗せ計4杯。シャクリってこんな感じかな。2回目の11月5日はインターバルも短くし積極的にシャクリ続ける。納得の8杯シャクリ方はこんな感じかな。船長からも『シャクリはそのシャクリでいいからね。まだ取り込みはなってないが・・・』3回目の11月25日この日は潮先で条件も整っていたせいか上出来の19杯で竿頭に、年を越して2011年1月8日、2月4日と水深も深くなり9杯、6杯と数も落ちるも烏賊が大きくなり満足の釣果でテンヤの墨烏賊釣りの魅力にはまってしまった。まだまだビギナーで烏賊をテンヤから外してソーと魚籠を引いた桶の中へのつもりで手が滑り墨爆弾、破裂など取り込みその他で色々と問題点がある。1シーズンが終わる頃、船長から来シーズンもおいで、来ないと折角覚えた釣り方を忘れちゃうよ。私も10月が待ち遠しい。このテンヤのシャクリ釣りで独特なのが竿で9:1の先調子で、今まで使っている安物の竿先を初日に折り、修理1月にまた折り、修理である。それと竿が重たい。Daiwaのメタリア スミイカH‐240軽くて感度の良い竿をそろえ。2011年10月3日スミイカ釣りの開幕その後週一で通い竿頭2回、21杯、18杯と好調も深場釣りが難しいしバットの確りした竿がほしいで20012年にTICA  JAPAN  江戸スミイカ テンヤ240を購入して開幕の10月を待った。前半の竿は軽量で竿先の感度が良いDaiwaのメタリア スミイカH‐240後半の深場用の竿は腰の確りした TICA  JAPAN  江戸スミイカ テンヤ240と使い分けた。2012年10月9日順調な出だしで13杯がその後は7杯9杯2013年1月に9杯と《ツ抜け》出来ずにシーズンを終わった。今シーズンは潮先が有利を強く実感した年でもあり、深場釣りの認識も出来て良かった。今度4年目に入ります。10月のシーズンインが待ち遠しい。また勉強です。目標に向かってGo。

 

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2013年

5月

27日

32.危ない魚・ヒレに毒のある魚3点+α

各時代の話

 

少年の頃、父と三浦半島城ケ島へ夜釣りに、父が『釣れますか』とバケツの中を覗くと釣り人が『こんなのが釣れました。何と言う魚ですか』と手の平に乗せて得意そうに見せます。父は慌てて『もどして、毒があるから素手で触っちゃあだめ』その魚の名は『ゴンズイ』で鯰や泥鰌のように髭があり縞模様があり一目で覚えた。その後は何度も釣りました。夜コマセを撒きながら小メジナを狙っていると群れになって浮き上がって来ます。通称ゴンズイ玉、釣ったら大きめのメゴチバサミとペンチで鉤を外し海へ帰ってもらいます。味噌汁に入れたら美味しいみたい?

 

ハオコゼは一見カサゴの子供かな、よく見ると顔が違うし背ビレも違う絶対に忘れられない。20代の頃の夏、竹馬の友と早川港の港内でコマセを撒き延竿にウキをつけての小物釣り、海タナゴ、シマダイ、カゴカキダイ、箱フグと遊んでいる。竿を上げたら魚がハオコゼと判ったがもう遅い此方へ向かってくる。サンダル履きの踝内側へチクリ、チクーンと痛みがはしる。蜂に刺された時と同じくらい痛い。痛みがやわらぎ釣り続けるとまたハオコゼがこっちに向かって来る。竿を持ったままさっと避けたがズボンの上から接触、チクッ。その後も釣れる度に右往左往3度目のチクッ。もうトラウマあの面と痛みは忘れない。よく考えてみたら竿を立てたら自分に向かって来るのにね。竿をほん投げちゃたら良かったかも。その後の釣行では何度も釣る機会が有りましたが『エヘン』一度も刺されていません。

 

30代の頃会社の慰安旅行で夜は宴会、翌日は、ゴルフ組、魚釣り組、自由行動組に別れる。魚釣り組は伊豆、稲取港、安貞丸10名弱で4時間の仕立て、釣りものはアマダイ五目、船代は領収書をそろえて会社持ち、皆ズブの素人で私が幹事、船長と一緒に釣り指導、釣り具一式:竿、タイコリール、天秤オモリ、ハリス1.5mの2本鉤に沖アミを付け底釣り、釣れて来る魚種は通称オジさんやトラギスが多く、キダイ、アマダイ、それに鬼カサゴ等が程々に釣れた。鬼カサゴはヒレに毒があり触らないように注意を促し、私が鉤を外し背ビレや胸ビレ、尾ビレ等ハサミで切る。釣れた魚は生簀へ。陸へ上がって魚の仕分け、まず魚がいらない人を外し、残りの人数で私が魚を平等に分け、皆に取らせた。人気はキダイ、アマダイ、さて鬼カサゴはヒレに毒があり刺されたら激痛を強調しすぎたのか誰も持っていかない。『じゃあ しょうがない俺が貰って行くよ。美味しい魚なんだけど』と迷惑そうに、船長が私の顔を見て笑っている。これだけみんなの面倒を見たので御褒美に3匹頂戴しました。読者の皆さんその後を期待していませんか。トゲに刺されて痛い思いをしたのではないかと。残念ながら頬の部分にも気をつけて処理。ちょうど妻と息子が留守で、食いしん坊の長女と美味しく頂きました。

 

最近(2011年)夏、釣りをしているとカツオのエボシ(茶色いクラゲの仲間)が糸に絡みつきそれを外していると手の傷口等に触るとピリピリしみながら痛い。今回、鶴見潮見橋・新明丸からタコ釣りでタコ釣りの渋糸やヨリモドシに付いているカツオのエボシを取り除いていたら海の水がザブー(おそらくカツオのエボシがついた水滴が右目に入ったのだと思う)右目全体がしみて痛くて目を開けられない。カバンの中の目薬を探したが無い。船長にも聞くが持っていない。常連のFさんが『どうしたの、右目が真赤だよ』事情を話すと『目薬よりも水でゆすいだ方がいいよ』と言ってミネラルウォーターを出して注いでくれた。まず手を洗い、目を濯ぎ、水に浸したタオルで目の周りをふくと徐々に目の痛みが消えた。Fさんに感謝!

 

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2013年

5月

27日

33.自分の不注意から起こった事

2012年の話

 

『キツネ鉤の先がない』と大学病院形成外科へ

 

最近(2012年)の話で初夏の頃、霞ヶ浦水系のホソへ真鮒釣りに出かけたが小物しかおらず鉤をキツネ鉤に変えてすぐ、何かの拍子に鉤を指先に刺してしまった。それも鉤先のあごの部分がすっぽり皮膚の中に入っている。あごの部分は返しが有って外れにくくなっている。鉤をゴリゴリとやって外すのも痛くて辛いし、持っていたペンチで一気に『エイッ』と鉤を抜いた。餌をつけようとして良く見ると鉤先の鋭角的に曲がった先がない。念のため右手中指の先の腹を広げて見るとそこに鉤先が見える。触ると『チクッ』と痛い『あちゃーやってしまった』これは自分では取れない。バンドエイドを貼り、帰宅後近くの東京女子医大東医療センター救急外来へ行くが受付で対応してくれず無理、改めて私に休みが取れた2日後の平日に形成外科外来で診察、まず必ずレントゲンを撮ってからDr.診察。小さなキツネ鉤のサンプルを持参これの先が折れて刺さっている事。アゴが有るので取りにくい事等を説明すると先生はレントゲンを見ながら『光ってる、光ってる。あるねー。取り合えずやってみるかー』と鉤は見えないが皮膚が盛り上がっている部位を触診しながらこの辺かなと看護師さんも手伝い、私には見えない角度で腕を固定して切除し始める。取れたよと指の処理後、私に見せ。『これ貰ってもいいかな』と折れた鉤先をセロテープでカルテに貼り付けた。尚切除した個所は縫わなくてもくっつくとの事。後日再度切り口を確認し治癒との事。 名医に診てもらい無事終了・・・感謝、皆さんも気をつけてください。

 

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2013年

6月

13日

34.KGさんとの出会い

1995年~2006頃~2017年

 

私がY酸器(医療ガスディーラー)に勤務していた頃、得意先にKGさんがいました。仕事の話をしながら、釣りをする事がわかり、会う度に仕事より釣りの話題が多くなり、今度一緒に釣りに行きましょう。で3カ月が過ぎようとした頃にタイミング良く私がやっていないヒラメの話題になり、竿を貸すからと言う事で外房大原からタイ五目とヒラメへのリレー釣り釣行となる。KGさんは私より少し年上で、釣りに対する自分の確りした型を持っていて私にない大人の雰囲気もある。釣り場も大洗、外川、片貝、大原、江見と広くバラエティーに富んでいる。最初は得意先と言う事も有り接待も視野に入れていたが、きっぱりと断られ、私はほっとした。掛かった費用は各自持ちでその後長い付き合いになって行く。釣り場も私の得意な東京湾の船宿での真子鰈釣り、真子鰈は大洗や那珂湊へも行き狙った。私の会社の釣り会や仕立て船などにも参加してもらい幹事の私を助けてもらう事、数多くあり、とても心強い助っ人でもあった。またKGさん行き付けの船宿にも行き、イサキ、ヤリイカ、花ダイ、鯵、鯖、等豊富な魚達にも恵まれた。それでも全てOKではなかった。私が紫イカ釣りに誘うと『あれはいい』逆に『フグ釣りは面白いよ』と誘われても私は『家ではフグを食べないから』といった具合でしたが兎に角、良く釣りに行きました。私にとってとても気が合う釣友で学んだ事も数多く有りましたが、定年があり、お互いに仕事から離れて行き疎遠になる。年賀状では今度一緒に釣りに行こう。電話番号や週間予定等が書いてあり、電話1本で釣行日が決まるのに、でもなかなか都合がつかない。この文を書きながら、『KGさんご無沙汰です。ところで今イサキが釣れているようですがどうですか・・・』と電話しよう。

 

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2013年

6月

13日

35.私にとっての3.11

2011年3月9日から現在進行形

 

3月9日那珂湊・つれたか丸で真子鰈釣りツ抜けして竿頭、気分上々で帰宅3月10日仕事を終えて帰宅TVを見るNHKぶらタモリで東京タワーを放送していた。しさしぶりに東京タワーでも行って見るかで妻と話がまとまる。2011年3月11日午前中早めにタワー下の駐車場に車を入れ大展望台に上る。展望台より高いビルを眺め、昼食を済ませ早々に帰宅、自宅に入って一呼吸、グラグラと揺れ始め長く強い地震、非常用セットを持って部屋の中心部で妻と安全確保、その後息子帰宅、家族全員の無事も確認、建物の壁にひび割れ箇所があるも一安心、TVのスイッチを入れるとそこから見える映像、信じられない後景に涙する。その後福島第1原発の爆発、放射能漏れと続き仕事には行くが気が重い、全体的には自粛ムード。そんな中私がAPCで関わっている週刊つりニュースを駅の売店で購入、電車の座席に座って見ていた。向かいの老夫婦の夫の方が電車から降りかけながら『こんな時によく平気で・・』表紙を見ると子供が笑顔で釣ったイシモチを掲げている。これを見て御立腹と判断、実は私が目を皿の様にして見ていたのは各地の船宿覧の安否情報であった。船体修理や港修復などで心ならずも混雑した人前で誤解を招く行為、家に帰ってからじっくり見ればよかったのにと深く反省した。日を追うごとに感じて来たのは『自粛』ムードで経済が発展しなければ復興にも影響が出て来る。経済の立て直し⇒普段の生活に戻る事。釣りの業界も沈んでいるだろう。営業している船宿も釣り客が余震の心配や自粛で少なくなっているだろう。㈱週刊つりニュースも釣行記事が少なくなっていて大変だろう。よしそろそろ真鮒の乗っ込みも始まる。それと周辺の正直な情報も書こうと決め4月7日(木)霞ケ浦舟子地区のホソへ、竿を出して型は見たがこんな時に釣りをしていて良いのかと言う罪悪感で落ち着かない。気持ちを癒してくれたのは2羽の白鳥です(気晴らし写真集の白鳥参照)早々に納竿 4月26日(火)与田浦川、横堀、高速下のホソへ釣行そこそこに真鮒が釣れほっとするが、こちらの被害がやたら目につく。香取市佐原の町、地盤沈下で家屋に相当の被害があった地区がある。また車で走っていると屋根がブルーシートで覆われている家が多い。与田浦川沿い、道路のひび割れが延々と続く、電信柱が斜めになっている。田んぼのあぜが崩れホソをふさいでいる。途中の道路や橋が通行止めの箇所有り等が目に入って来る。あまりの凄さに私が落ち込み、その旨を記事に書いたつもりが編集部に伝わっていず、2度驚く。そんな訳で月日が立ってくるが、今度は福島第一原発の放射能漏れの影響で福島県を始め隣県などで風評被害が出てきた。放射能の数値的には安全(国の決めた数値では)だが物が売れない。でも放射能は0ではない。これは我が家にも当てはまる。私が常磐の海や東京湾で釣って来た魚を家族の誰も食べない。私はHPで各県の水産物のモニタリングをチェックし数値的には安全、でも放射能は0ではない。強制は出来ないし。そうです。釣って来た魚は全て私一人で食べきっています。もしくはそっくり冷凍です。今まであれ程、皆で美味い美味いと喜んで食べてくれたのに。でも孫には食べてほしくはないし、ホントはお爺ちゃんの魚を食べさせたいんだけれど・・・。当然釣りのペースも段々と狂って来ています。沢山釣らない様に心がけている。でも釣ってしまう自分のサガが恐い。だからと言って魚釣りを止める・・・とんでもない もう少し考える時間を下さい。

 

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2013年

6月

13日

36.ブラックバス釣り

1987年頃~現在進行形

 

ブラックバスとの初めての出会いは甲府市の山の中に信玄ベラで有名な千代田湖と言う溜池がある。『最近、ブラックバスと言う外国の魚が増えてしまって』と言う話を聞き、見に行くと水中に止っている魚が見える。ヘラ竿に大きな玉ウキ1つ、マス鉤にミミズを付けて狙うと面白い様に釣れた。大きさは20㎝~25㎝で結構引くが少し痩せている。時期は8月のお盆の時期で特に朝夕に絞って釣行。甲府の町から自転車等で登って来る子供達がルアーで狙っているがなかなか釣れない。ある時初老の方がお孫さん連れでバスが入れ食い。餌に活きた小さめの泥鰌を付けている。なるほどフィッシュイーター。翌年私も朝夕に3.6mの小磯竿にリール、ウキはメジナ等を狙う円錐ウキ(錘内蔵)に泥鰌を付け遠投して狙った。見えバス狙いだがバスのいる所に直接狙うと着水と同時に逃げてしまう。3m~5m離れた所へ落とし少し引いてやると泥鰌が動き回るのか止まっていたバスがスーと餌の方へ。ウキが『チョンチョン スー』大きく合せ、入れ食い状態。釣り場は千代田湖の他に上の方に大正池、昭和池と溜池があり両方ともバスが居て池が小さくポイントが絞り易く泥鰌にも良く反応した。息子はバスをルアーで釣る事に関心を示し、そのまま成人になり現在もルアーでバスを追い掛けている。当時の息子の影響か私のルアーバス初ヒットは夕まずめにホッパーでゲットその時は興奮した。フライでも釣りたいと思い、冬場空になった田んぼでフライを綺麗なループ状になる様に練習、時々ラインが耳を掠めたが上手く投入出来る様になりドライフライでもバスをゲット。だが泥鰌餌のバス釣りはその後も続けた。霞ケ浦の河川や与田浦等の水郷地帯の河川でバス釣りは真鮒釣りのついでに成人した息子に教わりながらワームの最初はアンダーショットで『常吉リグ(村上晴彦の爆釣リグ)』次がノーシンカーの『センコー』で落下時やチョンチョンと誘った時にラインに魚信が出る。その他竿先を操作しながらリールを巻くとペンシルベイトの様なトリッキーな動きをする。この攻めの釣りで結構な成果を上げた。ここ7、8年は与田浦川等の辺地を竿を下げ小突きながら歩く『テクトロ』で成果を上げている。ワームは『常吉の小ボケ』『バイズクロー』『ドライブクロー』のザリガニ系で釣っている。今までのルアーは3系統のワームで通して来ました。ルアーでのバス釣りはどちらかと言えば素人に近いですが釣った数は負けていません。話はこのへんでホソの真鮒釣りの後半に合流です。
昨年(2012年)千代田湖の上の大正池でワームでバス釣りをするも全く魚信が無い。気配も無い。『バス釣れた?』『全然駄目』『そうだろう環境省の指導もあって去年池の水を全て抜いてバスを駆除、鯉は戻したよ』と笑って答えていた。 私は苦笑。

 

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2013年

6月

13日

37.霞ケ浦水系・与田浦水系、ホソの真鮒釣り

1988年頃~2012年現在進行形

 

何かの釣り雑誌の特集記事か真鮒釣り、霞ケ浦水系の場所を見て廻った事がある。その帰り道、霞ケ浦に沿って走る国道125号線から阿見町島津地区付近のホソで釣り人が30㎝の鯉を釣り上げたのを目撃。最初は大室地区の鳥居の側のホソで竹馬の友と小鮒を50匹ほど釣る。これは面白いと次回から家族を連れて阿見町島津付近で竿を出すも妻と娘は釣りに飽き散歩、息子と私は釣りに夢中。それからは単独で釣り場を捜し歩く。小場所の美浦村間野地区も私のマル秘ポイントでいつも時期が来ると良く釣れた。また佐原の水郷地帯にも足を運び釣りまくる。特に与田浦水系に沿って荒川新堀や横堀のホソと動き回る。釣期は双方とも3月後半、4月、5月の乗っ込みにぶつかると尺物の真鮒が釣れ、秋口も良い。その後は父と息子と私の3人での釣行が多くなり毎年釣り続ける。息子が学生の頃になると腕も上がり3人の釣り比べとなる。息子は若さか足で稼ぎ次々とポイントを誘って行く。好ポイントに入ると良型も釣って来る。私は良型の良く釣れるマル秘場所を歩きながら狙う。双方とも赤虫餌。父は歳のせいか赤虫が苦手でキジで鉤も大きく、此処と決めた場所に狙いを定め2本竿でじっくりと攻める。釣果はいつもキャリアと反比例してしまうが父にとっては子と孫の3人で一緒に釣りが出来る事に喜びを感じていて、とても幸せなひとときだったと思う。息子が就職、転勤となり、乗っ込みの時期等は父と私の2人だけの釣行、私の単独釣行も多くなる。その時はバスと真鮒の2本立てで朝一はバス、その後ホソの真鮒釣りと言う具合で釣行。前頁のバス釣りがここで合流します。例えば朝は土浦の新川でバス狙い、阿見町舟子地区のホソで真鮒、江戸崎の小野川支流でバス、与田浦でバス、荒川新堀のホソで真鮒釣りといった具合で試し釣り釣行。またこんな例もある。与田浦水系のホソで真鮒釣り、鹿島港『清栄丸』で夜イカ釣り、船宿に泊り朝には与田浦水系のホソで昨日の赤虫を使って真鮒釣りをして午前中、早めに帰宅といった強行軍も平気でこなす釣りキチでした。1つ気がかりな事が起っている様に思います。まず真鮒が7、8年前から少なくなったようだ。気のせいかな、ではブラックバスは、ブルーギルは?両方とも多くなった気はしない。むしろ少なくなった気がする。そこでただ1種類、勢力を伸ばしているのではないかと気になる魚がいる。『チャネルキャットフィッシュ』(通称:アメリカナマズ)です。気晴らし写真集に小中大と3枚載せました。ここ3年以内に釣れたものです。環境省の外来生物法で特定外来生物にブラックバス、ブルーギル、そしてチャネルキャットフィッシュ(アメリカナマズ)も含まれております。この魚は食用として仕入れた魚で残念ながら逃げられて増えてしまったらしい。食べたらおいしい魚らしい。間違って釣れた時に、最初の背ビレと胸ヒレのトゲに注意してください。ここにきてホソの真鮒釣りでは私自身がマンネリ化している。今後は新場所を探しながら釣りをしていきたいと思います。

 

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2022年

3月

20日

38.びん沼川で釣友N氏との出会い

2015年10月~2021年~

 

釣友N氏とは高校が一緒で同じ生物部に在籍の4人衆の一人で2013年11

月3日の同窓会で懐かしい友たちとの昔話に話が尽きない。N氏が私と同じ釣

りが趣味に驚く。小さい頃から叔父に釣りを教わり学生時代は盛んにへら鮒釣

りもしていたとの事。『今度機会があれば一緒に釣りをしよう』。その後釣行

機会がないままでいたがN氏から手製のハエウキを送ってくれ地元の川でハエ

が良い時は束釣り。だがこの年のハエはどうもかんばしくない様子。『へらは

やるの?びん沼川という関東でも有数の野釣り河川が有るんだけれど』と聞か

れへら釣りで即決です。釣行日は2015年10月24(土)場所は通称広っ

ぱ。N氏と会う前にびん沼川で試し釣りをと10月20日(火)三本木橋トイレ

下で12尺竿を出す。エサはグルテン四季と凄グルの底釣りで昼まで釣ってへ

ら12枚と上出来。その後の24日N氏と『広っぱ』で実釣。積もる話も沢山

ある中で釣りを始めるも時間はアッと言う間に過ぎて行った。釣果は今ひとつ

だったがとても楽しいひと時でした。『広っぱ』の上流に三本木橋がありここ

からはびん沼川とは言わず新河岸川放水路と言う。三本木橋トイレ下へはその

後11月12月と3回釣行しお気に入りの場所となりその後も釣行を重ねへら

鮒釣りの魅力にハマって行った。

子供の頃に父に釣り堀や野釣りで釣り方を教わったが実際へら鮒釣りの事を詳

く分かっていない事に気ずきへら鮒釣りの基本が書かれた書籍等を購入し一

ら勉強を始めた。

翌2016年3月で駐車場警備の仕事を退職し自宅近くでの仕事もわずかで

『自由人』となる。釣りでは『週刊釣りニュースの取材』やこのブログの立ち

上げ等、年内の行動は決まっている。また釣友N氏も土日祝日以外は仕事で頑

張っている。びん沼川の釣りは個々の釣行になってしまう事が多くなりお互の

釣行報告の連絡が多くなる。2016年は三本木橋トイレ下の底釣りから三本

木橋北側橋下で9尺竿でのカッツケ等宙釣りに挑戦し周りの釣師に教わりなが

ら覚える。宙釣りの系統の餌も試行錯誤しながら決まって行った。また橋下

に住み付く野良猫達との出会い。写真集『びん沼川の猫たち』の『野良たち

の表情や仕草が面白い』J.ミャーオー君 参照

ウキの動きは色々な事を教えてくれる。気に入ったヘラウキは2種類の大きさ

を3本ずつ購入し破損したトップは同じ目盛りの物を購入し修理している。浮

力はほぼ変わらず。へら竿もかなり古く安価なカーボン竿『かすみ』9・12

・15尺竿を購入する。その他へらバッグ等も。                     

2017年春先は順調に釣れましたが夏場の宙釣りエサ『カルネバ』の配合に

苦戦。また三本木橋北側に車が駐車出来無なくなり釣友N氏の誘いもあって進

んで新しい釣場として墓場下や水道管、びん沼橋周辺にも釣行。やがて夏から

秋になり宙深から底への釣りで調子を戻して来た。その中で底釣りのスペシャ

リスト釣友のN氏と肩を並べての釣行も多くなり彼から多くの事を学びました

。エサのつけ方や振り込む時の仕掛けの持ち方、魚信の出方による合わせの選

択など、特に底釣りでは私は下鉤トントンや片ズラシまで。彼は必ず上鉤トン

トンから釣り始める。私はウキの止めやサワリ、ナジミ方などに赴きを置き明

確な魚信で合わせ良型のヘラ鮒をねらうタイプ。彼は型にこだわらず小べらや

真鮒も分け隔てなく釣りながら魚との対話、リズムを作って行くのが上手い。

そして入れ食いが長く続き、型もそろって来る。秋口から終盤にかけては特に

ジャミのクチボソや鯉っ子、小鮒(真鮒)の魚信が減りへら鮒の魚信も渋くな

って来る。彼が私の横でウキの動きを見ながら『ほら今のいい魚信、オレなら

合わてせるよ』私にはモゾモゾの大きいやつで気にも止めてなかったがN氏の

中ではウキの動きでこれは合わせるときちっり区分けが出来ていると思われる

。小さくても力強い『クッ』と入る魚信なら合わせているが!必然的に彼は私

の倍以上のヘラ鮒を釣り上げている。彼は後から来て先に釣りを始めている。

当然段取りの良さもあるが彼の釣台は銀閣。すぐ足の位置を決められる。私の

釣台はそういうタイプではない。時間が掛かる。また座った時の安定感も違う

。現場でアドバイスを貰い型式は銀閣のスリム(幅40cmで跨げるし狭いが

胡坐もかける)に決め購入。仕度が少し早くなった。彼はまた釣台の前にピタ

ッと取り付けられるエサ台を作って来てくれた。11月16日はびん沼橋橋下

で新べらを放流。即釣り上げた。

 2018年は3月11日(日)に釣友N氏と『今年もよろしく!』と挨拶を交

わし三本木橋トイレ下で竿を出し4月の乗っ込みも絶好調でトイレ下で竿を出

し続ける。6月からの宙釣りはびん沼橋東側橋下を中心に7月8月9月10月

と数が伸びず釣友N氏と試行錯誤の釣りでした。8月19日のアクシデントは

少し気を緩めたすきに手から竿が勢い良く竿掛けを伝わってスルスルと川面へ

逃げて行き川の中央を行ったり来たりしただ唖然と眺めるだけ。しばらくして

その竿が私の方に向かって来る。橋の上から『もう取れるだろう』対岸にいた

釣師が橋の上から投げ竿で竿を回収してくれた。N氏がその釣師を確認してい

てくれてお礼の挨拶に行くと周りの釣師も皆スピニング竿を持参していた。感

謝です。竿は9尺竿の『月光』その後私も投げ竿を用意し特に大鯉に気をつけ

ている。10月頃になるとびん沼川に沿って業者が土手下の伸びきった雑草を

機械で綺麗に刈り取ってくれる。大変有難い事です。今年のびん沼釣行は40

回でした。

2019年もN氏と肩を並べながら早々から老人福祉センター向いの用水出口

付近の桟橋でタナゴ狙いも含め釣りをする。タナゴは桟橋と岸との間で釣れる

。3月後半には道なりに桜が満開に(斜面には菜の花も)咲き下流の第一カー

ブに沿ってとても綺麗である。その後は第一カーブや第二カーブ周辺でも竿を

出し今年最後はやはり3本木橋トイレ下でびん沼釣行37回でした。

2020年はコロナ過で一次足が遠のく。今年も釣友N氏と肩を並べながらの

釣行でびん沼釣行は21回。途中でN氏から釣り桟橋が全て撤去されたとの連

絡があり驚く。2021年もコロナ過で釣行回数はぐっと減り9回でした。

隣で見ていると今のN氏は宙釣りでも周りの釣師より数型ともに上回って釣っ

ている。N氏からはより多くの事を学んだ(例えば釣行日の風向きによって釣

行場所を決める等)。高校時代の友と年を取ってからも釣友として肩を並べて

釣りが出来る事は幸せだとつくづく思う。感謝!感謝!です。

びん沼川の生態系に触れてみます。

へら鮒・真鮒・大鯉(小鯉)・ニゴイ・ワタカ・ヤマベ(ウグイ)・クチボソ

(モツゴ)・チチブ?・ブラックバス・ライギョ・オカメタナゴ(タイリクバ

ラタナゴ)・カネヒラ・二枚貝・アカミミガメ(ブルーギルやアメリカナマズ

は見かけない)

鳥類は烏・鳩・雀・鵜・青鷺・白鷺・セキレイ?・カワセミ・鴨の仲間(秋~冬)

その他イナゴ・アマガエル等 蛇は見かけていない

『鮒に始まって鮒に終わる』という言葉が有る様に私の釣り人生もへら鮒で始

まりへら鮒で終わると思いますがあと何年釣りが出来るか?健康には十分気を

付けてN氏と肩を並べて少しでも長く釣りが出来ればいいなと思っています。

 

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2013年

6月

13日

39.自己流・草餅の作り方

回顧録編

 

以前に良く作りましたので自己流ですが思いだして書いて見ました。霞ケ浦
のホソに真鮒釣り、春になり、ちょっと田んぼのあぜ道などに目を向けると
土筆やヨモギが生えています。
①ヨモギをビニール袋に取り持ち帰る。
②ヨモギ以外の塵を綺麗に取り、水洗いし汚れを取る。その後殺菌消毒の意
も込めてさらっと茹でる。太い茎は外し、包丁で細かく切り、包丁の裏で
叩き潰す
③上新粉もしくは団子粉を練ってピンポン玉大に切り分け真ん中にすり潰
したヨモギを適当に入れて包みボール状にする。
④沸騰した湯の中に団子を入れて茹でる。
⑤団子が浮きあがってきたらOKで取り出し大きな容器の中に入れ手際よく
捏ねて混ぜ合わせる。餅が綺麗なヨモギ色になり香りもして美味しい。
⑥我が家では草もちを小さな団子にしてキナコやアンコを乗せていただく。
 

 

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2013年

6月

13日

40.初めてのイカ釣り

回顧録編

 

1990年頃に浦安の吉久から初めてムギイカ釣りに出かけた。水深も70m~90mほどと記憶している。竿は50号トップの竿に100号錘、11cmのプラ角5本のブランコ仕掛けリールはカウンター付きの手巻きリールで、イカ角投入器は借りる。釣り場到着までの間釣り談義と言うよりも釣り方、シャクリ方、イカの乗った感じ等教わる。釣れるイカはムギイカにマルイカが混じるとの事。到着後釣り開始の合図が出て我先にと投入で慌ただしい。その後『上げて』で手巻きで糸を巻き上げる。船が移動し始める。急いで仕掛けを取り込む。手巻きなので急いで取り込まないと間に合わない。のんびりしていると船がはしってしまう。その内にムギイカやマルイカが釣れてくる。最終的には教えてもらったベテラン19杯を抜いてムギイカにマルイカ混じりで20杯おまけにヤリイカ1杯追加の合計21杯、上出来の釣果でした。3種類のイカの刺身を皿別に分けてテーブルに出すと。子供達が美味い美味いと言いながら夢中で食べ始まった。最初にマルイカ、次にヤリイカの皿が無くなり、ムギイカの皿は刺身が半分ほど残り、御馳走さまになった。子供は正直だなと感じた。

 

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2013年

6月

15日

41.父は船頭、私は船長、あなたはなんて呼びますか

回顧録編

 

もう父は亡くなっていますがふと昔の父との会話を思い出します。『○○の船頭は良かったなあ皆に釣らせた』私も子供の頃、船釣りに連れて行って貰った事があるが確か舟が小さくて船縁も低く便所は竹の棒が船下に向かって下がっていてその筒に我が息子を入れて様を足した記憶がある。父の話では釣り場に着いたら船頭が艪を漕いで舟を操った。当然潮先有利だが名船頭は全体の釣れ具合を見ながら帆先を自由に変え皆が平等な条件になるように釣らせたそうです。父は『船頭』と言呼び、私は船も大きくなり船の最高責任者に心から敬意を表して『船長』と呼んでいます。一緒に船に乗った時、父をよくよく観察すると人に話す時は『船頭』本人に話す時は必ず『船頭さん』と呼んでいた。私は間違っても『船頭さん』とは言わず役付き敬語の『船長』と呼んで通しています。それと昔は船頭も無口で色々とすぐには教えてくれず、父は同じ船宿に通って通ってハゼの『ノリやモタレ』の極意等を教わったそうです。今の釣船は客商売、豊かな設備を持った高速船で、船長は優しく親切に言葉巧みに釣り方等を説明する。またホームページや動画などで釣りの情報をどんどん発進していく。またライトタックルや一つテンヤの真鯛釣り等の様に新しい釣り方等に即、対応して行く。大変だと思います。昔からの江戸前の小物釣りを好む私としては釣果は兎も角、隣に座った方と会話がはずみ和やかな雰囲気で釣りが出来、船長ともジョークを飛ばしながら1日楽しく過ごせればそれでいいなと思います。ところであなたは船の最高責任者に対して何とお呼びですか?

 

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2013年

6月

15日

42.タイトルの 少笑発進・・・笑いについて

回顧録編

 

脱線した話で恐縮ですが、タイトルの少笑発進の少笑にはニヤッと笑う、プッと吹き出す、クスクスと笑う、思い出し笑い等の少笑の意味です。私はもの心ついた頃(中学生)からTVで寄席番組を見るのが好きでした。学生の頃に私は目のクリクリッとした可愛いらしい彼女を連れて上野鈴本演芸場に落語を聞きに行った。左端の一番前の席に座り幾つかの落語を聞いた後、海苔巻きや稲荷寿司を、彼女と話をしながら頬張る。その時粋な着物姿で三味線をかなでながら語り始めた。チラッとこちらを見て『そこの二人寿司なんか食っている場合じゃあないよ。為になるから私の話を聞きなさい。』で皆がこちらを見ながら大爆笑、私達は恥ずかしさで下を向いたまま、その後本題に入りお喋りと三味線を引きながら都々逸等を披露、その間もちらちらとこちらを見る。大拍手の中、楽屋へ。いじられるのもまんざら悪くないな、いやむしろ快感かもしれない。43年も前の話で懐かしく思い出します『玉川スミ』師匠で2012年92歳で永眠。30代の頃の私は仕事の帰りによく池袋演芸場に、下足番に靴を預け、お茶と菓子を頼み座敷の真中で偉そうに落語を聞く。出演者よりも客の方が少ない?その後深夜寄席とうたって¥300‐?を徴収、若手大喜利、司会はかえる(鈴々舎馬風)師匠で大きいハリセンを持って。この頃が一番熱心に落語を聞き楽しんでいたかもしれない。ところで落語家(噺家)ってすごいものだなあと感心する。演者がたった一人でその話の中での登場人物を全て表現し、笑わせ聞き手を話に引き込んで行く話術。ところで私の好きな落語家ベスト3。第3位2代目桂枝雀師匠 兎に角面白かった。第2位は5代目古今亭今輔師匠、好きな演目は『ラーメン屋』笑いながら胸がきゅっと締め付けられる。そして第1位は十代目金原亭馬生師匠で好きな演目は特に『笠碁』待ったなしの待ったをし、喧嘩別れをした町内のヘボ碁仲間、笠をかぶり店の前を行ったり来たしている町内のヘボ碁仲間を店の中の友がそれを呼び止められないもどかしさ、自分もそこにいて一緒になって手招きしているおかしさ、馬生師匠の名演技です。そう言うおかしさを随筆文で少しでも現わせたらなあと思いますもいつも才能が無く駄文で申し訳ありません。最近寄席へ行ってきました。2013年2月2日(土)正岡子規が晩年住んでいた台東区根岸にある子規庵で正岡子規(四季)にちなんで年四回行われるヘチマ寄席。今回の演者は金原亭世之助師匠で偶然にも馬生師匠のお弟子さんでした。演目は長い演目で文七元結(ぶんしちもっとい)世之助師匠の熱演に目を潤ませ聞き入っていましたが、途中から聞いた事のある話だな、どなたが演じた話か(噺家)やっぱり似ている。名人の3代目古今亭志ん朝師匠(馬生師匠の弟)で2度びっくり。私は『少笑』の笑いが好きであり、タイトルに。

 

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2013年

6月

15日

43.記憶と魚拓

回顧録編

 

記憶はその時の状況など印象に残った事を覚えている。でも何時だったかなぁ確か○○㎝?魚拓はその点明確である。随筆『ちょっとの笑いを含みながら思いついた儘に記憶を辿りながら釣行記(自分史)』を書いている。楽しいひと時であるがふと部屋に飾った額縁の魚拓、随筆最初の『達磨さんが転んだ』の舞台、暁埠頭公園(魚拓は13号埋立地)で1988年息子が10歳で24cmの黒鯛(カイズ)を釣った記念に撮ったもの。記憶が蘇って来た。この時期、東京湾で黒鯛の放流が行われ、ここ暁埠頭公園でもカイズが釣れるポイントがありそこで息子が釣り上げた物だ。その時期だったと思うがそこで私は変った魚も釣り上げた。20㎝ほどだったが力強い引きで今までに見た事のない魚。帰って魚類図鑑と睨めっこ、そっくりな魚があった、コショウダイの若魚で2本の暗色斜総走体があり背ビレから尾ビレにかけて斜めに暗色小斑点があった。尾ビレ付近にかけてやや黄色っぽかったが模様は図鑑の写真と全く同じ、デジカメでもあれば撮っていたのに、ただ暖流系の魚が湾奥にはどうも?魚はお腹の中へ。今までの古い魚拓も取り出して眺めていると記憶が蘇って来る。魚拓によると1980年12月30日江東区新木場若州橋で真子鰈2枚を重ねた魚拓で体長33㎝と32.5㎝これは記憶を辿ると夜半に釣り上げた物で明灯3本半のかけ上がり付近の欄干に凹ました缶を紐で縛り竿置きにして2本竿に青イソメをたっぷり付けて魚信を待つ。とても寒い、竿先がゆっくり上下する魚信で合せるとズシッとした重量感、水面まで糸を巻き上げる。橋の上から魚を確認しここからは魚を見ながらゆっくりと糸を手繰り上げて行き橋の中へ。凄いスリル感。鰈を持って鉤を外そうと力が入り白子がズボンにピュー。今までの失敗は水面から上もリールで巻いてきて巻けなくなり鰈が暴れてバラシ。地合いなのか続けてまた魚信、同じようにスリルを味わいながら釣り上げ、その後魚信もなく納竿。気分良く帰宅。この時期こんな場所で夜に数は出ないが良型真子鰈が釣れた良き時代でした。でも今思えば12月30日の夜に誰もいない橋の上で、まあ良くやるよ。ホントに!もう一つは1973年頃に得意先の大旦那から聞いた話で、一度は経験したかった釣りである。話の内容は『おいM、あれは面白かったなあ。江戸前の海で脚立に座って、魚が竿をヒッタクって行くよ。よく引いたなぁ。型もよかった。食いが渋くなると周りに餌を撒いたり食わなくなると合図を送り側に船頭がいて場所を替えてくれる』魚の名はアオギス、干潟等の浅瀬を好み、警戒心が強く船の影などを嫌う。で脚立釣りなのだ。アオギスは東京湾では絶滅。最近の記憶では江東区中川船番所資料館を見学した折に和竿の展示やテレビで昔の古い釣りのビデオを見、その中にアオギスの脚立釣りがあった気がする。それと私が興味を持った資料に【江戸の武士と釣り文化~釣り指南書『何羨録(かせんろく)』の世界~】江戸湾の釣り場干潟(洲)等が乗っていた(気晴らし写真集の最後の写真参照)。この資料館をもう一度詳しくみて見ようかな。昔の資料を調べるのも楽しいかな。

 

 

思えば東京湾で先ほどのアオギスの脚立釣りと言い、私がちょっと前の若い頃は鰈やアイナメが良く釣れた。今は釣れなくなったが。やはり東京湾にとって干潟や洲が残っている事が如何に大切か、カニやヤドカリ、アサリやシジミ等の貝類、ゴカイなども住みつき稚魚も育つ場所でもある。鳥達も来て自然が循環して行くそしてマコモなどの水草も育つ環境。東京湾をそんな海に戻したい。そして子や孫たちの時代に沢山の魚達が戻って来るように願う。 

 

 

思いつくまま書きました駄文を最後までお読みくださいまして感謝です

 

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